2017年05月19日

ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の大百科事典




まとめ
英語に興味がある人すべてにオススメ


高校に進学する春休みの中学生が本書を手にしたなら、どれほど素晴らしいことだろう、と思う。
3年間学んできた中学生英語の真髄が、生き生きと、パズルのピースがカチカチとはまるように理解できる至福の快楽が得られるはずだからである。英語が英語として、もっと好きになるからである。

点を取ることを要求される試験の英語は苦手だけれど、でも、英語は好きだと思う学生が増えて欲しいと私は考える。英語の成績がパッとしなくても、英語が好きである気持ちがあるのなら、その子はいつだって粘り強く英語と向き合って楽しめる最大の資質を有している。英語の試験で優秀な点が取れることよりも、英語に前向きな感情を持っている方が遥かに良い。「ビッグ・ファット・キャット」シリーズの素晴らしいところは、勉強勉強しすぎた英語とは離れて、もっと気楽に英語に触れれば良いのだという緩さにある。入試問題にみられる長文読解の解き方を学ぶわけでもTOEICで良い成績を取るためでもない。楽しめる英語を、自分のペースで続けることで英語を身につけましょうというスタンス。そして、読むことの重要性を強調している。

頭の良い子なら、本書を通じて、英語への理解と精緻が向上した上で高校英語も優秀な成績が取れるようになるだろう。高校英語の成績には直結しないにせよ、英語への苦手意識や拒絶反応が消え、英語を学ぶことへの積極的な気持ちが湧くに違いない。ゲームにしろスポーツにせよ、そのルールが頭と身体で理解できるようになってくると、俄然と面白くなるものだからである。勢いがついてレールに乗ってしまえば、あとはしめたものだ。ペーパーバックにチャレンジする日は近い。


本書には、書き下ろしの新作「Big Fat Cat AND THE LOST PROMISE」が収録されている。いままでのシリーズには毛ほども存在しなかった恋模様が、おなじみのメンツを交えて描かれる。エドとジェーンの年齢設定が高すぎるような気がしてならないが、私の誤読であろう(多分)。

このエピソードを読み終えたら、「英語のブックガイド」を参考に洋書デビューを果たすと良い。
洋書というのは、不思議な存在感があるものだから、是非とも自分自身で手にしてもらいたい。

過去、私は明らかに難しすぎるものを選んで惨憺たる結果になったことがある。心の声「難しくても、頑張って訳して読んでみよう」は裏切られるので信用してはいけない。その結果生まれる挫折感ほどつまらぬ厄介モノはないのだ。格好つける必要はない。難しすぎない良質なもの(読み終わった後も、本棚に大切にしまっておける珠玉の存在にしたいものだ)を選定すべきである。柔道を習い始めたその日に一本背負いを練習することは決してないのである。

 
enjoy!!

posted by ぎゅんた at 08:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 漫画以外の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月15日

望み薄だったナラガシワの芽生え


seedling_02.jpg
ナラガシワが発芽するとこのような姿となる


秋→冬→芽生えの季節へ
 「どんぐりから、どんぐりの木を育てる」場合に、もっとも留意しておかねばならないことは、時間がかかることである。これは致し方ない。自然の時間の感覚と人間のそれは異なるのである。自然からみれば人間の1日など瞬きする程度の時間であろう。

 どんぐりは、乾燥を避けた状態で冬の寒さを経験して春にならないと芽生えてこない。根を張って、春を待っているの状態であり、地面から顔を出さないのである。埋めたことも忘れた頃に芽生えている感覚である。

 埋めてから発芽まで時間がかかるのが待ちきれない人は、どんぐりを乾燥しない状態で冷所保存するか、麻袋に詰めて土中保存しておき、春になったら播けばよい。が、この方法は面倒である。秋に採取したどんぐりを土に埋め、越冬させ、発芽を待つ方が実際の自然の営み通りであるし、実際のところやる方も楽なのである。動物に掘り起こされたりしない場所で、土が乾燥し切らないよう、管理することを怠ってはならないが、概ね放置で済む。


seedling_01.jpg

 土に埋めておいたどんぐりが乾燥しすぎると、発根はするものの発芽しないで死んだような状態になる。この状態は一見して「枯れてしまった」ように見えるのだが、諦めずに水分を与えると発芽を開始することがある。どんぐり内部の豊かな栄養分がなす生命力であろう。ゆっくりであるが、発芽が進行していく様を観察できる。最後の最後まで諦めずに耐えていた健気さが胸をうつ。

 植物を観察しているのと楽しい。特に春が過ぎて葉が青々とした隆盛の時期であるからなおさらだ。盆栽が趣味である人の気持ちがちょっとわかる。


タブノキは「どんぐり」の木ではありませんが
 越冬だと?そんなに待ってられねえぜ俺はせっかちなんだ!という人には、タブノキがおすすめです。初夏に実がなり種子が得られるうえ、撒いて一週間もすれば発芽するからです。タブノキは寒さにちょっと弱いので、冬は0度以下にならないところで保護しましょう。


iPadから送信
ラベル:樹木
posted by ぎゅんた at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月06日

加佐ノ岬


加佐ノ岬_1.jpg


加賀市橋立には、ひっそりとした岬が存在します。加佐ノ岬です。
日本海を望む加賀海岸を崖の上から一望できる、寂寥感ある灯台付きの岬です。

利便にかまけた近代生活を送る我々は、その一方、決別して距離を置いている「自然」に触れることで精神の保養を求める勝手な生き物であります。

それはともかく、自然に触れたいと思った時に、すぐに足を運べるスポット、それも「穴場」なところを確保しておくことは日々を生きる現代人にとって軽視すべきでない要件ではないでしょうか。嫌なことがあって気が滅入った時に海に行く人もいますし、登山に出かける人もいるとききます。人間が心理を回復させるには、ちょっとした孤独感が必要であって、それを求めるために大自然の中にお邪魔する向きがあろうかと思います。とすれば、人が必要以上に集まることのないスポットに出向くことが望ましいことになります。連休中の自然公園のような、子どもと保護者の喧騒に包まれた場所では精神の保養は難しいからです。

加佐ノ岬_2.jpg


加佐ノ岬は、加賀市民のなかではマイナーな場所です。存在は知ってはいるけれども、足を運ぶことはない。「なにもない場所」「ショボい岬」扱いをされているのが実情のようです。加佐ノ岬は学童時に遠足で訪れた経験のある人も多いはずですが、それ以降、訪れることのないままの人が多い。遠足というのは自然を学ぶ校外活動でありますから、選定されるのは「自然以外になにもない」、要するに子どもにとっては地味な場所にほかならず、さしたる印象を残さない結果になるのも無理なからぬ話ではあります。だからと言って価値のない場所では決してありません。訪れる人も少ないですし、世俗との適度な隔離感があり、なにより景色が良いからです。静かな場所で高所から海を一望したい人は気に入る場所でないかと思います。夕焼けが綺麗です。



アクセスはちょっと癖があります。
グーグルマップでみると太い道がありそうですが、実際は細く勾配のあるヘボ道です。自動車がすれ違うにはちと幅が狭いので、大きな車で向かうと泣きをみます。

加佐ノ岬_access.jpg

橋立自然公園を抜けると墓場が左手にみえる丁字路があるので、そこを左折して加佐ノ岬の駐車場に向かうルートが無難でしょう。ここには清潔性はあまり期待できないがトイレがあります。また、すぐそばにカフェがあります(パワースポットがどうたらとか看板にあるので胡散臭いですが、加賀市民が利用する真っ当なカフェです)。加佐ノ岬を訪れるには階段や坂を降りたり登ったりするので、このカフェで一息つけるとよいでしょう。
 
ラベル:海岸
posted by ぎゅんた at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

(再考)映画「虹色ほたる」 思い出は、命


虹色ほたる_film_01.jpg

映画「虹色ほたる」は世間的にマイナーな作品であり続け、さほど高い評価は受けていないようである。私はこの作品を傑作だと確信し、映画好きの友人らに鑑賞を勧めたが期待する感想は得られなかった。しかし改めてこの作品を鑑賞すると、生涯の一本と断じて差し支えがないほど、私が愛してやまない作品のひとつであるとの思いを強くするのである。

舞台となる昭和53年の谷戸の山村は、夏が終わればダムに沈む運命にある。思えばこの当時は、ダム建設はあたかも国策事業であり、全国のあらゆる谷戸を対象にとどまるところを知らなかった。ダム建設の目的は治水・灌漑・発電である。貯水することで川の氾濫を防ぎ、水不足を防ぎ、水力発電を可能ならしめるとする名目と土木技術の結晶という位置づけで、人間は自然を科学技術で征服したよな陶酔感をしてこれを受けいれたのである。ダムに求められる治水は、その眼目は、結局のところ、都市人口の爆発的増加に対する水の確保にあったように思う。増え続ける都市圏の人間を賄うための水瓶が欲しかっただけにすぎない。

天の恵みである雨は、ただ人間側の一方的な都合によってダムに堰きとめられ、河川を流されることになった。同じくして、人間の生息圏では、雨は生活にとってただ余計な邪魔者になった。降水を土に還すことを忘れ、コンクリートやプラスチックの斜面を滑って河川に注ぎ込んだ。河川は排水路として機能すべく、いかなる水量の増加があっても、決して溢出することないよう護岸と堤防工事がなされ隔離された。そこでも土は邪魔者であり、水を涵養させることを拒むコンクリートで武装された。間知ブロックの隔壁が河川の壁紙となり、結果、全国の河川はフランチャイズな見た目の、特色のない直線排水路に変貌することになった。

経済成長路線をひた走り続ける戦後の日本社会は、このことにさして違和感も痛痒も覚えなかったとみえる。行きすぎた自然軽視の姿勢に警鐘を鳴らす専門家や識者によって、自然保護・環境保護の強い気運が生まれることになったが、日本人が意識せずに自然と調和して築き上げてきた文化遺産の殆どを破壊して喪失してしまった現実を前に茫然自失とする他になかった。抜歯鉗子がどんなに酷い歯槽膿漏よりも速く歯を抜いてしまうように、ひとたび人間が何らかの目的で自然に大きな手を加えると、取り返しのつかない急激な損失を生むことがある。ダム建設は確かに、治水の面で人類に益をもたらすが、その一方で、二度と買い戻せない損失を覚悟しなくてはならない。

虹色ほたる_film_03.jpg


本作を視聴していると、文明というのは、自然の循環を利用して恵みを得ることに最適化させた長年の知恵と経験であるべきだと思わされる。私はなにも我々が、先祖と同じようなあばら家に済むべきだとか電気のない生活を送るべきだといいのではない。科学技術に支えられた人間の生活が、自然の中に、なんらその循環と恒常性に危害を加えることなく存在し、そのなかで存続していくスタイルに落とし込むべきだと思うのである。使い古された表現を借りれば、結局のところ人間は自然が許してくれる範囲の中でしか生きられないからである。どんなに人間の科学技術が進歩しても人間は生物の根幹を変えることはできない。水を飲み、酸素を吸って二酸化炭素を吐くことを止めることができない。生まれてから死ぬまで、懸命に生きる存在なのである。偉そうに述べているのは私だけで、しかし、この作品は自然破壊についてなんら非難がましい主張はしない。「そこにあった」恬淡な風景を丁寧に描写しているにすぎない。そただそれだけのことだ。その中にあって私は、かつて我々が有していた自然と距離の近い豊かな生活を捨ててしまったのだと意識させられるし、後ろ髪を引かれるような、望郷の念に駆られるのである。

この作品に流れるメッセージは力強い。青天狗の台詞にもあったが、私は「生きていてさえすれば」だと思う。どんなに辛いことになろうとも社会に翻弄されてしまっても、生きていていさえすれば、なにかがあり、どうにかなる。そして、過去の記憶を共有している相手こそ、かけがえのない宝物である。おばあちゃんに「さあ、行っといで」と見送られるさえ子とゆうたが涙を流すのは、記憶から消えてしまう残酷さと申し訳なさで胸がいっぱいになっているからだ。思い出は、人が生きる命そのものだからである。だからこそ、別れシーンで「必ず見つけるから(生きよう)」と約束した2人が愛愛おしくてたまらない。また遊ぼうな!とケンゾーと約束して別れるシーンが切なくてたまらない。青天狗が旧友と再会するわずかな1シーンと同様、私は涙を禁じ得ない。会うは別れの始まりということを、この作品ほど上手に丁寧に描いた例もないのではないかと思う。

虹色ほたる_film_02.jpg


本作は子ども向けの作品だが、子どもたちはこの作品の深い魅力に気づかない気がする。出会いと分かれの機微への理解、里山・自然環境への理解、「夏休み」を懐かし思う気持ちなどが物語をより魅力的にするからである。案外に大人向けであるのだが、肝心の大人はこの作品の絵柄をみて視聴を躊躇しそうな点が致命的である。私は傑作だと確信しているが、「隠れた名作」扱いがせいぜいのところだろうか。

夏休みに地上波で放送でもされれば評価が上がりそうなのだが、「火垂るの墓」があるものなあ。
 
posted by ぎゅんた at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 虹色ほたる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

サヨナラiPad mini コンチワiPad mini4


how to fix.jpg


もう5年以上使用していた相棒であるiPad miniが、故障して死んだ。
死んだ、というより私が引導を渡した(始末してしまった)のが正しいのであるが。

死因はゴーストタッチの嵐で操作不能になったからである。勝手にアプリを起動しまくってフリーズしたり画面の縮小拡大を繰り返してフリーズしている有様。そもそもこちらの入力を全て無視するのでメモで文章も打てなければメッセージの送信もできない。それどころか勝手に余計なことをするわけで、アプリは起動し続けるわデータは消すわ誤送信はするわの迷惑極まりない振る舞いしかしない。制御不能天衣無縫。起動したが最後、危害しか産まないのである。

メモに書きためた記事を消しまくっていく姿にブチ切れた私に引導を渡されこうなった。


gobou pad.jpg


膝蹴りを一発かましただけでこうなるとは、iPadは虚弱体質に過ぎるぞ。


ゴーストタッチの主因は、画面ガラスの亀裂の長期放置のようである。購入して一年目のときに落下させた際にディスプレイガラスを割ってしまい、修理せず使い続けていたのだ。

これまでも稀にゴーストタッチと誤動作の片鱗はみせていたのだが、のび太ママに教えられた方法で窮地をしのいできたのである。それを4年間続けてきた。しかし、流石に今回の症状は終わりの始まりであった。ダメになるときはもう修理もなにも受け付けないのが機械というものか。


パソコンと同じで電子デバイスの寿命はせいぜい5年だとか聞くが、概ね、間違いではありますまい。私のようなゴーストタッチ・ストームといった致命的状態には至らないまでも、レスポンスの著しい低下やボタン類の故障、ハードディスク容量の枯渇など、パフォーマンスが使用者の現実世界に追従しきれなくなったら、もう替え時のようだ。

ものは大切に、古いものも大切に、道具は良いものを末長く…、といった、人間が生きる上で大切にしなくてはならない理念は電子デバイスには通用しないようだ。ちょっと寂しい。やっぱアナログのが好きだわと行き過ぎたデジタル化と距離を置く人種が一定数いて当然である。俺は地球最後の日までガラケーを使うぜ。



さてiPad mini4であるが、すこぶる良好である。画質の著しい向上とハイ・レスポンスが心地よい。文章を打つときの入力切り替えや変換のモタつきが皆無なのが嬉しい。文章を作成する作業の効率が300%増しである(良い文章が生み出されるわけではない)。思えば、愛用していた初代iPad miniは動作がトロ過ぎたし画面が汚かった。進化を前にすると、過去の技術は残酷な評価を下される。

ブラウジングも素早いし、JavaスクリプトをOFFにしなくともサクサク観覧できる。容量も16GBから128GBに増えたのだから、一生涯かけても使いきれない安心感に包まれる。野外にて日照下にあっても画面がちゃんと見えるのも地味ながら驚きだ。カメラの画質も満足のいくレベルに向上している。こんなことならさっさと乗り換えておけばよかった。新しい畳と女房と電子デバイスは最高である。涙をのんで大枚を叩いたがその価値はあった。

やや残念なのが、バックアップの復元ができなかったことだ。
iPad miniのバックアップをとったパソコンと、このiPad mini4をライトニングケーブルでUSBとつないでも認識してくれないのだ。畢竟、iTunesでのバックアップデータ復元が行えないわけである。絶対に引き継がなくてはならなかったデータではないが、思い入れのある写真が消えたのは惜しい。

iTunesでのバックアップは新しいパソコンで行い、画像等のデータはクラウドにアップロードしておくか、古典的だがDVDに焼いておくべきであろう。しかし、なんで認識しないのだろう?電圧が足らんのか?古いパソコンはお断り?
ウ〜ン 近代オモチャにゃかなわん…
 
posted by ぎゅんた at 23:44| Comment(2) | TrackBack(0) | iPad2 , iPad mini | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする