2017年10月12日

(映画感想)「ブラックブック」簡単に他人を信用するなかれ


「アイアン・スカイ」みたいなパッケージ疑惑


ポール・バーホーベンが好きなくせに見逃していた一本。
ノンフィクションに着想をフィクションとのことである。

STORY
1944年9月、ナチス・ドイツ占領下のオランダ。美しいユダヤ人女性歌手ラヘルは、ナチスから逃れるため一家で南部へ向かう。しかし、ドイツ軍の執拗な追跡にあい、ついには彼女を除く家族全員を殺されてしまう。その後、レジスタンスに救われたラヘルは、ユダヤ人であることを隠すため髪をブロンドに染め、名前をエリスと変え彼らの活動に参加する。そしてナチス内部の情報を探るため、ナチス将校ムンツェに接近、彼の愛人となることに成功する。


この物語をオランダ人であるバーホーベン監督がオランダで撮影したもの、というところがミソである。主人公ラヘルはユダヤ人であり、キリスト教を押し付けられる皮肉がきいている。伏線のきいたミステリアスな物語になっており、翻弄されがちで油断ならない展開をみせる。解放されたオランダ人たちが狂気の暴徒と化し、醜いと言わざるを得ない人間性を露わにするところもまた、バーホーベンらしさに満ちている。しかしまあ、なんと嫌なところを突いてくる監督であろう。

キリスト教でないピンとこないかもしれないが、ラヘルがどれだけの精神的苦痛や屈辱を味わったかは、ユダヤ人やキリスト教圏の人なら身につまされて分かるはず。肩身のペンダントを使って棺の十字架のネジを締め上げるシーンのとんでもない圧迫感を映像で伝えてくる手腕は見事としか言いようがない。

ユダヤ人は、自分たちユダヤ人以外を心の底から信用することはできない不治の病に侵されているように思えてならない。そのことを誰が咎められようか。教育にリソースを割き、知力を磨き、野心とバイタリティに溢れ、資金にモノをいわせて業界を裏から支配しようとするユダヤ人を羨むことも非難することも簡単だ。しかし、ユダヤ人以外に真似できる人種はいそうもないし、正すこともできない。
 
posted by ぎゅんた at 18:38| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

(映画感想)「ショーガール」なにがラズベリー賞だ傑作じゃねかコノヤロー



鬼才ポール・バーホーベンの渾身の一作。

バイタリティと才能恵まれた直情型無敵セクシーねーちゃんがラスベガスを舞台にストリッパーからスターダンサーへと駆け上るスポ根ムービー。

人間の様々な面を包み隠さずありのままにフィルムに焼き付けるのが趣味(斜線)主義のバーホーベンらしさが大炸裂している。いきおい、極めて濃いヒューマンドラマに仕上がっている。別にストリッパーでなくても、本作のストーリーは成功しただろう。なぜストリッパーを題材に?「バーホーベンだから」に決まっている。

「下品な内容である」と断じればそれまでかもしれない。バーホーベン作品につきものである「嘔吐と強姦」が存在するし、ポルノシーンも存在する。下品、といっても論ずるに値しない低俗な下品さではなく、人間もまた動物であるところのセクシャリティさを隠していないところの下品さに過ぎない。

主人公ノエミは頭の弱そうで理性のない直情的な女ではあるが、才能と度胸にものを言わせてスターダムにのし上がっていく。もちろん、自分ひとりの力でそれを成すのではない。友人や仕事相手やライバルキャラたちと出会い、ぶつかり、成長したからこそ、夢を実現させるのである。単純で熱いスポ根ドラマが根底にある。バーホーベンなので、そこらへんの描写がちょっと生々しかったりするだけだ。

色々なことがあって、夢みたトップダンサーの地位をナオミは捨てる、ラスベガスを去る決意をする。失望もあったし、親友の復讐のためでもあった。なにより、最後の最後でライバルキャラであるクリスタルと本当の意味で心が通い合い、打ち解けることができたからであった。この最後のシーンの、言葉にできない美しさが素晴らしく圧倒されることだろう。ラスベガスを去っていくノエミに後悔も暗さも微塵もなく、物語は明るく幕を降ろすのである。

本作をラズベリー賞にした審査員はアホである。どう擁護しても、作品を鑑賞していないだろうとしか言えない。そんな連中を嘲り笑うことは簡単だ。本作を鑑賞すれば良いのである。オススメ。
 
posted by ぎゅんた at 18:31| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

(映画感想)「アウトレイジ 最終章」


やくざ対やくざ.jpg
↑これは「たけしの挑戦状(1986年) 映画公式サイトは→こちら


全編に渡って陰鬱と寂寥さが貫かれているアウトレイジ最終章。
派手なドンパチも高いカタルシスもなく、前作で本職と見誤るような胃を見せた花菱の重鎮の姿もなくなっている。コントラストに欠いた世界観の中を物語淡々と進行する感じなので、物足りなさをおぼえるかもしれない。

主人公・大友は義理堅い無法者である。昔気質というか、古くさい極道そのものである。「ビヨンド」でもそうだったが、部下である若い衆を大切にしている。しかし善人ではないので、敵であれば平然と殺害する。

意図的にえがかれているのが主人公・大友とマル暴刑事・繁田のスタンスである。両者は立場は違えど、自分のアイデンティティを確固として有し、己の信ずる道を行こうとする。信念でもあり一本気でもあるが、決して良い結果が約束されるわけではない。上手に立ち回らなくては利用されるだけで出世はおぼつかない。そのためには嘘をついたり騙したり、自分を偽らなくてはならない。それができない不器用な男は、舞台から降りるしかない。大友は死に、繁田は辞表をだすことになる。しかし、この2人が愚かだと単純に割り切れるだろうか?

「こんな映画にマジになっちゃってどうすんの」なんて言われそうだが、ビートたけしさんは主人公大友に自身を投影しているであろうし、立場の異なるキャラとして繁田を配置しているはずである。時代に合わない生き方をしているけれども、そんな合わない生き方を貫く男の姿に自分を重ね合わせる気持ちがあったはずである 。それはまた、信念のない生き方やマネーゲーム(金を稼げば偉いとか、手段が正当化されるとか、人の上に立つとか、およそ義理のない種の生き方)に辟易とした気持ちがあり、そのことを受け入れている社会が正しいものかどうか疑問を投げかけているかのようである。山王会も花菱も人が死にまくり、残ったのは老獪さはあれど全盛期のような気迫のないロートルたちのみ。早晩、日本から極道はいなくなり韓国マフィアに日本国がシマにされる未来は避けられそうもなさそうだ。閉塞感につきる。この結末はなにを暗示しているのだろう。

筋を通すとかケジメをつけるってのはゴミクズであるヤクザのちっぽけな矜持(ピカレスクで捉えれば美学)であろう。そんなものでも貫けないなら、もう終わりなのかもしれない。

思えばアウトレイジシリーズは、木村との出会いと共闘と別れ、そして木村の仇打ちでまとまっている。大恩ある会長に迷惑をかけてまで、木村の仇を討った。だから、ケジメをつけなくてはならない。終わりとはあっけないものである。

posted by ぎゅんた at 21:45| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月29日

【試乗】VOXY ZS(FF/CVT)


「人は家族を持つとミニバンに乗って死ぬ」とか某イギリス人が言っていた気がするが、家族を持つとミニバンほど便利でありがたいクルマがないのが事実であるし、それを否定するのは野暮である。

トヨタのVOXYは、販売店によって名称とフロントマスクその他に違いはあるものの、基幹コンポーネンツは同じであり、ネッツ店が扱うものがVOXY、カローラ店がNOAH、トヨペット店がエスクァイアとなっている。ミドルサイズミニバン(というクラス分けがあるかはわからないが、トール系ワゴンである軽自動車、アル/ヴェル/エルグラなどの巨躯のミニバンと比較すればミドルサイズである)は及第点の3列シートを備えており、それを畳めば広大なカーゴスペースが得られ、程よい車高の高さは足腰の弱った人でも乗り降りがしやすいし、特徴であろうスライドドアは子育て世代には「本当に」ありがたいアイテムなのである。ミニバンは、バスか貨物車を運転するのかとおもわれようが、やはり実際に使用するとその便利さが骨身にしみる。便利さの前には、多少の拘りなど瑣末なものである。日本人は道具に対してハンディな機能美を追求してきたDNAがあることも無視できまい。

いずれにせよ、このVOXYはトヨタの売れ筋ミニバンであり、それは取りも直さず日本のミニバンの代表選手であることを意味している。結婚して家庭を持つようになると色々あるので、試乗に行くことになった。乗り始めて長いGHアテンザ25Zももう走行距離が99500kmである。



結果
・酔ってしまった
・トヨタ・ブランドとハイブリッドを強く求める人向けかな?

少なくとも私がミニバンに求めるものは、安全で安定した運転感覚があり、3列シートを備え快適な車内空間が確保されていることであり、それが小さい車体で実現されているもの、である。

試乗した限り、VOXYはこれらの条件を満たしているように思えた。ただ、気に入ったかどうかでいうと、答えはNOである。

ミニバンに走りを期待しても仕方がないが、このVOXYは印象に残るドライビング感覚がなかった。自己主張のない自然な感じといえばそれまでだが、さすがに無個性すぎるというかなんというか(運転していて寂しい気持ちになる)。早くも遅くもないし取り回しがしづらいわけでもないが面白いわけでもないし、走る・止まるも不安がないのだが、及第点であって喝采をあげるほど訴えてくるものがないといおうか。

それよりも厄介なのが車酔いである。トヨタの乗り味なのだと思うが、なぜか酔うのである。これは私が子どものころからのもので、トヨタ車に乗ると酔いやすい傾向がある。足回りが柔らかく優しいものにしつらえてあるのだと思うが、感知できないような微振動で身体が予期せぬ揺さぶられに遭うからかもしれない。ハイブリッドモデルであればまた違うのかもしれない。

このVOXYを試乗する前に、自分が運転したわけではないが新型ステップワゴンに乗車している。3列シートやワクワクリアゲートの動作ギミックはアイデアものであり、それでいて高い実用性を持っていた。ウォークスルーの隙間は取り立てて広いわけではないが、移動に支障はなかった。3列シートも身長175センチの大人が子どもと座る空間としては充分で、エマージェンシーではなかった。使わないときは畳んで床下に回転収納させておけるわけだが、これは後部空間の採光性や開放感の面で優れている。ステップワゴンの動力性能がどこまでのものかは数字でしか推し量ることはできないが、子どもを持った家族が所有することを想定するなら、このVOXYよりもステップワゴンの方が商品力は上であろう。ステップワゴンは売り上げ的に苦戦していると聞くが、やはりトヨタブランドは強いということだろうか。



ミドルサイズミニバンの一般的な候補は、このVOXY/NOAH/ESQUIREか日産・セレナかホンダ・ステップワゴンであろう。適当に選んでも後悔することはなさそうなぐらい、どれも高い商品力を有するレベルにある。各社が潤沢な開発資金を投じ、切磋琢磨して、徹底したネガ潰しを行い、間違いがないミニバンに仕上げているからである。

VOXYはその毒のある外観とキャラクター路線から、若い世代やちょいワル系のオーナーを狙ったミニバンであることは間違いない。カタログを拝見する限りちょっとやり過ぎの域に達している感を受ける。ヴェルファイアまでは必要としないオーナーのためのミニ・ベルファイア路線のための車種になっている感じを隠そうともしていない。下品といえば下品である。しかし、ミニバンが家族のためのファミリーカーであることを承知の上で、そこに止まることなく個性的な路線を打ち出している積極性は、画一的になりがちなクルマ市場と、購入者の選択肢が増えてくれる意味で望ましいことであろう。

posted by ぎゅんた at 20:33| Comment(0) | 試乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月28日

(映画感想)エイリアン・コヴェナント

alien_covenant_film.jpg

 本作は、「エイリアン」は俺の創り出した作品なんじゃあ!文句あるかコノヤロー!と叫ぶリドリースコットさんの三部作の二作目であります。

 え、前作あったの?と思われた方は「プロメテウス」をご覧ください。本作はアレの続編です。そして続編(最終作)が予定されています。「プロメテウス」が「人類の起源がウンタラ」とテーマにしていたようで実はそんなことはさして重要でなかったぜと真顔展開したもんだから駄作認定されてしまいましたが、実際のところは、人類の起源がどうたらではなくエイリアンの誕生が重要なテーマに据えられているようです。しかし誰もそんなことにさして興味はないと思います。エイリアンの生みの親は俺だぜとリドリースコットさんは声を大にして事実化したくてたまらないものですから、止めることはできないのです。巨匠は、最後に自身の最高傑作を形として残したい衝動に駆られるものなのでしょう。

 リドリースコットさんは確かな実力のある監督ですから、「エイリアン」エッセンス路線から外れずフィルムに仕上げてくる手腕は見事。ただ、やはり「エイリアンの誕生」なんかに今更あまり興味を惹かれない現実を打破することは難しいわけで、大傑作と太鼓判を押せるまでには至らないように思います。

 全編にわたって「エイリアン(1)」を彷彿とさせる要素が散見していますから、ストーリーがその前日譚でありながら、「エイリアン(1)」のリブートでもあるようです。となると、続編は「エイリアン(2)」の内容のリドリースコットさん版が予想されるわけで、アクション大作に仕上げてくる可能性があります。器用な監督ですから、キャメロン監督の「2」を超える内容で三部作を仕上げてくれる期待が持てます。



エイリアンの誕生、人類の起源、犠牲、想像、そして人間らしさとは、etc…

 生命感が徹底して排除された寂寥とした空間を舞台に、SFホラーかなと思いきや存外に哲学が張り巡らされたストーリーが展開します。きちんと世界観が構築されていて、監督の高い実力が伺いしてます。イマイチ細かいところで疑問に思うSF設定や、壮大で重要な人類入植計画であるはずなのにドカタ臭とやっつけ感を隠しきれないクルーたちの人物像など、アレ感も散見してますが、同時に「そんなもん気にしなくていい感」が(好意的な意味で)根底に流れているのでB級映画ではなく、一線を張る大作に仕上がっています。個人的に気になったのは、作中で「エイリアン」が完全な生命体である存在のような扱いを受けているのですが、観客側はどうにもそう納得しきれないところが物語に熱中できない足枷になっていることでしょうか。

 キリスト教圏の人であれば、理解と関心が深まる内容ではないかと思われますが、とにかく小難しい話っちゃ話で、私も内容を誤解しているかもしれません。アンドロイドの「設定」は慎重にというテーマなのか、生命の創造者というのは神でもなんでもないという否定なのか、もうひとつうまく説明できません。とんでもなく後味の悪い映画だよということは断言できるのですが。
 
posted by ぎゅんた at 20:32| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする