2017年08月02日

(映画感想)「ジョニー・マッド・ドッグ」




子どもには安定した社会と大人の庇護と教育が不可欠だと思い知らされる映画。戦争映画の範疇に入る作品だと思われるが、派手な戦闘シーンや残虐描写はない。暴力描写よりも、銃を持って殺人をも厭わない子どもの姿を克明に映している。ストーリーのある映画だが、ところにドキュメンタリさが感じられたりして、冷たく残忍な現実をフィルムを通して伝えてくる。「カティン森」や「ホテル・ルワンダ」のような、視聴することで魂を抉らるタイプの作品。

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アフリカを舞台にした映画は数あれど、どれもこれも内戦の哀しみが描かれるきらいがある。まるでアフリカは内戦で大地を血で染め尽くしていると言わんばかりである。アフリカ各国の発展が遅いのは、内戦が起きざるを得ない国家間構造(構造的に民族対立を煽りに煽るスタイル)と不安点な政情による貧困に原因があるのであって、アフリカ人の知能が低いとか、赤道近辺の人種は怠け者だとかいう意見は偏見に満ちた的外れである。政治・経済が安定すると、社会情勢が安定し、発展の道を辿ることになるのが普通だ。ただし、アフリカは民族対立が蜂起しやすい構造にあるために、いいところまで行くと内戦がおこって「ポシャる」ようである。海外に留学にでた知識層は国に帰らず、良識ある治世者は心が折れそうになっているのである。アフリカで発展しているイメージにある国家は南アフリカ共和国であるが、犯罪率は依然と高いようである。このまま数十年、国が維持されていけば時間が社会の安定化に寄与するものと思われる。勿論、私はアフリカ詳しいわけではない。世界中の多くの人も、そうだろう。アフリカに関する情報をニュースや書籍や映画で得ているに過ぎない。

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舞台は作品中では明らかにされないがリベリアのようだ。リベリアには、過去の内戦時の混乱を生き残った人や少年兵が今も民主の中にいて普通に生活しているそうである。内戦が終われば、職を解かれる兵士もいるわけで、本作の主人公ジョニーもそのような扱いだ。悲壮な姿が描かれる。少年兵というのは、大人の都合に理不尽に巻き込まれて人格も人生をめちゃめちゃにされた使い捨てのような哀れな走狗だということである。この作品のフォーカスは少年兵の姿にあり、彼らを産んだり利用している大人の姿は控えめである。そこがまた、救いの無さを強調している。
 
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2017年07月08日

(読書メモ)「30過ぎたら利息で暮らせ!」原尻淳一・著




サラリーマン向けのビジネス書。マーケティングについて、また、学びとビジネスへの応用と実践と発展についてがストーリー仕立てで書かれた本。肩肘はらず気楽に読める内容。2009年発行。

本書の中から、個人的に印象に残った箇所を記憶頼りに抜粋したのが以下である。



マーケティング
扱う商品やサービスと世の中とをマッチングし、売れる確率を高めていく作業。

マーケティングとは商売の道具である。「いかに失敗しない確率を高めるか」の思考技術でもある。よく耳にするマーケティング戦略とは、商売戦略のことである。


商売を考えたとき、最も重要なことは「売り上げ」である。売り上げはシンプルな公式で成り立っている。

売り上げ=客の頭数 ✖️ 客の来店頻度 ✖️ 客単価

マーケティング戦略は、この3つのボタンのどれを押すかの問題。頭数の戦略か、頻度の戦略か、量の戦略か。



リバース・エンジニアリング学習
マーケティングの理論や方法は自分の身で実践してみる。必ず一度、自分の生活で理論の有効性や本質を確かめ、そこで得た理解を業務に持ち込む。マーケティングで行うことには、必ず自分の生活の中に、それと対応する要素がある。そこで、自分の身体感覚で実験しながら解析し、教科書的な抽象概念を補正し意味を深く理解する。それをビジネス構築に反映しようとする学習行動のこと。

新しく知ったビジネス理論があったら、それを実生活で取りこみ反映する。結果をフィードバックし、実際の仕事に応用する。



マーケッターが、やらなくてはならない仕事の根幹
自分が扱う商品を、市場やトレンドに最適化すること。
商品やサービスを売るための業務と、母親が子どもを想ってカレーライスを作る作業は、商品と顧客のニーズをマッチングさせるという点においてまったく同じ。

これは簡単なようで意外に難しい。コミュニケーションの秘訣を知っていなくてはならない。コミュニケーションがうまくいくかどうかは、いかに相手のことを想い、相手にとって必要なことを察知して、そこに自分の意見や考えを重ねることができるかにかかっている。相手を想って、自分の言葉を重ねることを、日常的にトレーニングしていくべきである。会社でも家族や友人と一緒のときも、全ての場合において、まず相手が何を望んでいるのか、そして自分は何ができるのか、その点を考えてから言葉を発する癖をつけるようにする。相手を想って発した言葉に、相手がどう反応したかをノートにまとめていくと良い。相手を想うとは、相手の立場で物事を考えることである。だから、相手の意図がわかりやすくなる。相手の意図がわかれば、自分のやるべきことが明確になる。



アウトプットのために自分のデータベースを構築する
ビジネスに使える知識や情報は、常にアウトプットにつなげることを意識する。アウトプットのレベルを高めたいのなら、たくさんインプットして有効な知識や情報をたくさん吸収することである。読書からでも、インターネットからでも、自分で撮った写真でも、使えそうな情報はストックし、整理しておく。



スペシャリストとして重要なこと
「変わらぬ本質を、どうやって新しい技術やトレンドやターゲットに適応させていくか」ということであり、優れたプロはそのための編集能力に長けているものである。

スペシャリストは会社で積み上げた知識がとても深いので、その知識を原資として形成される価値の利息が大きくなる。自覚的にスペシャリストを目指し、そこで培った経験や知識を活かして自分の価値を膨らませることが大切である。また、人間関係を広げることも忘れずに。生き方の幅が広がるだけでなく、自分が所有するスペシャリティの価値を認めてくれる人との出会いがあるかもしれない。

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2017年07月05日

(書評)「ドキュメント 高校中退 −いま、貧困がうまれる場所」青砥 恭・著


高校中退は、実質的に身分が中卒であることを意味する。そして、極めて世間体が悪い。「中卒は使い物にならない」「中卒だから、職にも就けない」などという認識が広く世の中に蔓延している事実を、誰しも実感として承知している。そして、「最低限、高卒」が社会的コンセンサスとなっている。

冷静に考えれば、これは誤解であって偏見である。中学校を卒業した人間が使い物にならないのなら義務教育は機能していないし、就職できないのは雇用者が中卒者を一方的に弾いているだけだからである。高度に専門的な職業はさておき、義務教育を終えた人間であれば大抵の仕事に従事できるからである(その場合、雇用者に「育てる気」がなくてはならない。即戦力を要求する、育てる気のない雇用者であれば不幸なことになる。もっとも、そうした雇用者が中卒者を雇うとは思えないが)。

しかし、実質的に中卒であると憂き目にあう。なぜなら、彼ら高校中退者=中卒者の大多数は、中学校を卒業した者が普遍的に備えているはずの学力を備えていないからである。就職というのは、ひとまずは絶対的な立場にある雇用者に「こいつとなら一緒に仕事ができる(したい)」と思わせることが根底にあるものなので、乱暴な表現をすれば「馬鹿」はお断りなのである。九九すらも満足にできない人間を雇う雇用者はいないのである。本書のタイトルにある「高校中退」の原因の根底には、深刻な学力低下が横たわっている。ドキュメントとあるように、本書にはその実態が生々しく記述されている。高校中退と学力低下の関係性について、多くの人は気づいていなかったはずであるから、一読すれば驚かされることだろう。そして、その深刻さがどれほど日本の社会を毀損しているか、考えさせられるだろう。貧困があるから高校中退が起きているのではなくて、学力低下と高校中退によって貧困に陥る(「貧困がうまれる」)のである。ここには、日本の識字率は世界一だとか学力ランキング上位の県の教育が云々といった、高校中退と全く無縁の位置にいる情報の陽は照らない。

恐ろしいのは、家庭が貧困であることが逃げられない呪いのように学力低下に結びついてくることだ。貧困が、有望な子どもたちの未来をどれほど奪ってきたことだろうか。社会全体が共有しなくてはならない悲劇が横たわっている。



子どもの貧困と学力低下についての問題は、ひところに比べ世に広まったかに思える。しかし相変わらず、貧困家庭でありながら学力低下で落ちぶれるのは本人の努力不足であると断ずる声がある。これはあまりにも一方的な感情論である。「衣食足りて礼節を知る」という諺があるが、勉強もまた、衣食が足りていなくてはならない。生活に余裕がなくてはならない。貧しいとは、学べないことなのである。

筆者は、学力低下に対する社会的なサポートが必要だと説く。筆者の考察の元に繰り返して述べられているが、日本の授業料は高額であるし、子は将来の国の宝であるから高校教育を義務教育とし、無償化すべきという主張がメインである。これはもっとものことのように思えるが、私は賛成できない。高校教育も義務教育化すれば、今度は「最低限、大卒(および専門学校卒)」に移行するだけの気がするからである。高等教育が無償化することも望まれる施策ではあるが、それよりも学力低下に対する処置、ことに貧困家庭に育つ子どもへの学力サポートの拡充が先決ではないかと思うからである。学力低下の始まりは、授業について行けなくなった時から始まるのだから、この時点での介入が求められる。子どもは、授業について行けたり、テストで点が取れれば安心するし、勉強に前向きになるものだ。

学校の授業について行けなかったりテストで点が取れないことで周りと比べられ自分が劣っていると判断させられるのは、本来、酷で一方的なことなのである。とくに大人には「テストの点が全てではない」と慰めのように述べることがあるが、子どもたちにとってはテストの点は絶対的な尺度なのである。テストで点が取れないと落ちこぼれ扱いするくせに、どこの口がそんなセリフを吐くのか。

学校のテストの点がその子の将来やその子の素晴らしさを保証する者でもなんでもないことなど大人は分かりきっている。けれども、小さな世界観に生きる子どもにとってそれは信じることができない。だから、テストの点が取れるように導くことこそが特効薬なのである。

過去の行き過ぎた受験戦争を反省して、テストの点だけでなくその子の良い面を伸ばすゆとり教育に舵が切られたが、うまくいかなかった。結局のところ子どもたちは、周りについて行けなくなって「落ちこぼれ扱いされる」ことに恐怖を抱くのであるから、そうならないためのサポートを拡充することが肝要であるし、学力低下の防止につながるだろう。貧困家庭の子どもへの対応も込めて、学校外の場所(市民会館や地区会館や図書館など)で、ボランティア講師によってなされるべきであろう。行政の協力をとりつけて、門戸を広くし、校区外の同年代の子との交流が促されるようにすると良いだろう。子どもの世界観を広く取り、少しでも多くの大人と接触させることは、子どもの成長に欠かせない糧となるからである。そしてまた、地域全体で、子どもの貧困と学力低下を阻止する姿勢を貫くことである。

考えさせられることの多い良書である。

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2017年07月01日

(映画感想)「エンド・オブ・キングダム」


「エンド・オブ・ホワイトハウス」の続編。主人公補正バリバリのタフネスSPが、警護の対象である米国大統領をあろうことかバディにするように立ち回るスーパー脳筋アクション映画。

現代は平和を享受していると思いきや、テロの脅威と恐怖に常に包まれた世界である。我々はいつテロの厄災にあうか分からない不安と共存しているのである。テロは、デカイ顔をしたがる西側先進国の東側陣営へのちょっかいによる文化的軋轢が引き金で始まり、小競り合いが生じ、大国の思惑が横入りしてきて泥沼と化し、憎悪と復讐の連鎖で雪だるま式に成長して収拾がつかなくなるものである。本作のストーリーラインの根本も、そんなところにある。西側も東側も、お互いを尊重して絶対非干渉を貫くならテロなんて起きないと考えるのはお花畑だが、そう信じたくもなるし、実現したら面白い気がする。だが、同じ惑星に住み気象や資源を共有している以上、非干渉は叶わぬ夢なのである。従って人類は、国境を引いて区別されるべき集団を形成する。家族が住む家の中にだって壁や仕切りがあるのだから当然だ。お互いのために線引きが必要であるし、それがマナーなのである。いまや「世界市民」を信奉するのは左翼かぶれぐらいのものだろう。ありえないのである。

本作は、結局のところはアメリカ万歳映画である。直情的ですらある。そこには「米国最高!!あ、まあ英国もいいよねオレらの親だもんね」な意識が透けてみえる。ドイツ・フランス・イタリア・日本のトップはバカ扱い。ロシアが登場しないのはギャグ扱い。中国の姿が全くなかったのは意外。米国のパートナーは英国だぜ!のスタンスを演じる一方で中国を絡ませると「色々と面倒」だったのが事実かもしれない。

テロを引き起こされることになった遠隔攻撃への反省の念はないので、最後にまた同じことをするあたりは真顔なのかしたり顔なのかギャグか分からなくなる。米国映画なのだから当然かもしれないが、せっかくテロを題材としているのなら、もう少し小難しいエッセンスを加えても良かったのではないか。そうすると、アクション押しが叶わなくなるので、アクション重視に舵を切ったのだろう。実際、感心するほどまでにアクションシーンが多い。暴力描写は控えめであるが、お腹いっぱいになれるは必至である。

米国は、テロで巻き込まれる一般人への配慮がないと指摘される。そんなもん東側のが酷いだろと思わないでもないが、それはそれとして、安全な場所からターゲットを確実に仕留めるなら、犠牲はつきものだとする意識は確実にある。西側の映画では、常に一般人や子どもに被害が及ばないよう配慮する軍の姿勢が強調されるのは、実態が異なるからである。だから、従軍した兵士が精神に異常をきたす。無関係の人質を殺してしまって平然としていられるほど人間は器用ではない。

この映画では、テロで巻き込まれる一般人についての謝罪はない。一方で、テロを起こす犯人への無慈悲で異常ともいえる憎しみは燦然としている。テロを起こす連中など殲滅したくてたまらない米国の恐怖が透けてみえる。テロで巻き込まれる一般人にしても、テロ組織の人物とつながりがわずかでもあればそれは共謀者であるから構わないと考えている姿勢も透けてみえる。テロを画策する連中とつながりがあろうものなら一方的に殺されても文句も言えない社会を目指しているように思える。昨今、国家を紛糾させたテロ等準備罪への曖昧模糊とした気持ち悪さの正体がここにある気がするのである。
 
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2017年06月27日

(映画感想)「アウトバーン」




タイトルとPV動画から「麻薬の運び屋がアウトバーンを爆走するかアクション映画」を想像したものであったが、そんなことはなかった。惚れた女のために体を張る、割と真っ当なアクション映画で、その中にアウトバーンとカーアクションが混じったものだ。原題は「COLLIDE」であり、そこにはアウトバーンの意味はいささかも含まれない。本邦上映の際のタイトル改変が、中身に誤解を招くようなものであるべきではない。とはいえ、「コライド」と直訳タイトルであってもインパクトに欠けてしまうのだが。

結論から感想を述べてしまうと、本作は「平均点以上の出来のカーアクションもの」になる。濃く短く、テンポの良い内容にするために描写を端折ったのだろうが、それが説明不足となって満足感を削いでしまっているところがある。これが惜しいところで、もう少し丁寧な描写を織り込んでいれば、評価が高くなった作品であろうと思うのである。

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例えば主人公は、自動車泥棒を派手にやりすぎて米国に居られなくなったことが述べられる。その際に「自動車泥棒の天才だ」みたいな修飾もつく。しかしアッサリすぎる。この作品で主人公は持ち前のドライビングテクニックと、なにより自動車ドロのスキルを発揮して活路を切り開いて行くだけに、説明が足りない。

自動車泥棒に必要な心得や哲学、過去の経験などを相棒に説いたりするシーンが序盤に少し設けるだけでこれは回避できたはずだし、なにより主人公が活路を切り開くシーンに説得力が出て盛り上がったはずだ。主人公補正や運が良いだけで切り抜けられたかのようにみえてしまうのは良くない。

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次に、主人公の相棒である。
実はものすごく仲が良く信頼し合った間柄だったのだなあと分かるのが最後の最後である。こうした「相棒」は、とかく裏切り役に転身するものである。そうでないなら、真のバディであることの説明がないと気持ち良さがない。また、バディとして活躍するシーンがほとんどないので、物語から外れてしまっている。男同士が信頼し合ったバディであることが明らかで、(この相棒が)もっと活躍してくれれば更に良い内容になっただろう。活かせる素材を無駄にしている感が強く、惜しいのである。

ヒロインは麻薬が原因で両親と別れた設定があまり活かされなかったかなと思う程度。正統派パツキン美女で、主人公が一目惚れするのも頷けるビジュアルがよろしい。高級車と美女は合うのである(このヒロインが高級車に乗るシーンはないけど)。

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ストーリーは深く考えなくて良い。高級車は乗り捨て感覚。道交法違反や騒動に巻き込まれた一般人の行方は知ったことではない。終盤にどんでん返しもある。しかし流石に無罪放免はないと思うのだが、海外の警察はいい加減なのか。娯楽アクション映画におけるストーリーは、作品のもつ「勢い」と「興」を削がない添え物であれば良いわけで、その意味では本作のストーリーは合致している。ただ、そこで動く駒である人物たちのフォーカスの点で不足があり、それが本作を視聴しての物足りなさにつながっている。

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ケチをつけるような感想になったが、要は深く考えずにみれば良いカーアクション映画である。暴力描写は低めで、恋愛描写が(この手のジャンルにしては)丁寧で中性的なのも特徴か。美しいケルンの街並みやドイツの風景が見ることができる観光ムービーとしても楽しめなくはなさそうだ。おヒマな時の一本にオススメの作品だ。

posted by ぎゅんた at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする