2017年10月12日

(映画感想)「ブラックブック」簡単に他人を信用するなかれ


「アイアン・スカイ」みたいなパッケージ疑惑


ポール・バーホーベンが好きなくせに見逃していた一本。
ノンフィクションに着想をフィクションとのことである。

STORY
1944年9月、ナチス・ドイツ占領下のオランダ。美しいユダヤ人女性歌手ラヘルは、ナチスから逃れるため一家で南部へ向かう。しかし、ドイツ軍の執拗な追跡にあい、ついには彼女を除く家族全員を殺されてしまう。その後、レジスタンスに救われたラヘルは、ユダヤ人であることを隠すため髪をブロンドに染め、名前をエリスと変え彼らの活動に参加する。そしてナチス内部の情報を探るため、ナチス将校ムンツェに接近、彼の愛人となることに成功する。


この物語をオランダ人であるバーホーベン監督がオランダで撮影したもの、というところがミソである。主人公ラヘルはユダヤ人であり、キリスト教を押し付けられる皮肉がきいている。伏線のきいたミステリアスな物語になっており、翻弄されがちで油断ならない展開をみせる。解放されたオランダ人たちが狂気の暴徒と化し、醜いと言わざるを得ない人間性を露わにするところもまた、バーホーベンらしさに満ちている。しかしまあ、なんと嫌なところを突いてくる監督であろう。

キリスト教でないピンとこないかもしれないが、ラヘルがどれだけの精神的苦痛や屈辱を味わったかは、ユダヤ人やキリスト教圏の人なら身につまされて分かるはず。肩身のペンダントを使って棺の十字架のネジを締め上げるシーンのとんでもない圧迫感を映像で伝えてくる手腕は見事としか言いようがない。

ユダヤ人は、自分たちユダヤ人以外を心の底から信用することはできない不治の病に侵されているように思えてならない。そのことを誰が咎められようか。教育にリソースを割き、知力を磨き、野心とバイタリティに溢れ、資金にモノをいわせて業界を裏から支配しようとするユダヤ人を羨むことも非難することも簡単だ。しかし、ユダヤ人以外に真似できる人種はいそうもないし、正すこともできない。
 
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2017年10月11日

(映画感想)「ショーガール」なにがラズベリー賞だ傑作じゃねかコノヤロー



鬼才ポール・バーホーベンの渾身の一作。

バイタリティと才能恵まれた直情型無敵セクシーねーちゃんがラスベガスを舞台にストリッパーからスターダンサーへと駆け上るスポ根ムービー。

人間の様々な面を包み隠さずありのままにフィルムに焼き付けるのが趣味(斜線)主義のバーホーベンらしさが大炸裂している。いきおい、極めて濃いヒューマンドラマに仕上がっている。別にストリッパーでなくても、本作のストーリーは成功しただろう。なぜストリッパーを題材に?「バーホーベンだから」に決まっている。

「下品な内容である」と断じればそれまでかもしれない。バーホーベン作品につきものである「嘔吐と強姦」が存在するし、ポルノシーンも存在する。下品、といっても論ずるに値しない低俗な下品さではなく、人間もまた動物であるところのセクシャリティさを隠していないところの下品さに過ぎない。

主人公ノエミは頭の弱そうで理性のない直情的な女ではあるが、才能と度胸にものを言わせてスターダムにのし上がっていく。もちろん、自分ひとりの力でそれを成すのではない。友人や仕事相手やライバルキャラたちと出会い、ぶつかり、成長したからこそ、夢を実現させるのである。単純で熱いスポ根ドラマが根底にある。バーホーベンなので、そこらへんの描写がちょっと生々しかったりするだけだ。

色々なことがあって、夢みたトップダンサーの地位をナオミは捨てる、ラスベガスを去る決意をする。失望もあったし、親友の復讐のためでもあった。なにより、最後の最後でライバルキャラであるクリスタルと本当の意味で心が通い合い、打ち解けることができたからであった。この最後のシーンの、言葉にできない美しさが素晴らしく圧倒されることだろう。ラスベガスを去っていくノエミに後悔も暗さも微塵もなく、物語は明るく幕を降ろすのである。

本作をラズベリー賞にした審査員はアホである。どう擁護しても、作品を鑑賞していないだろうとしか言えない。そんな連中を嘲り笑うことは簡単だ。本作を鑑賞すれば良いのである。オススメ。
 
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2017年10月09日

(映画感想)「アウトレイジ 最終章」


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↑これは「たけしの挑戦状(1986年) 映画公式サイトは→こちら


全編に渡って陰鬱と寂寥さが貫かれているアウトレイジ最終章。
派手なドンパチも高いカタルシスもなく、前作で本職と見誤るような胃を見せた花菱の重鎮の姿もなくなっている。コントラストに欠いた世界観の中を物語淡々と進行する感じなので、物足りなさをおぼえるかもしれない。

主人公・大友は義理堅い無法者である。昔気質というか、古くさい極道そのものである。「ビヨンド」でもそうだったが、部下である若い衆を大切にしている。しかし善人ではないので、敵であれば平然と殺害する。

意図的にえがかれているのが主人公・大友とマル暴刑事・繁田のスタンスである。両者は立場は違えど、自分のアイデンティティを確固として有し、己の信ずる道を行こうとする。信念でもあり一本気でもあるが、決して良い結果が約束されるわけではない。上手に立ち回らなくては利用されるだけで出世はおぼつかない。そのためには嘘をついたり騙したり、自分を偽らなくてはならない。それができない不器用な男は、舞台から降りるしかない。大友は死に、繁田は辞表をだすことになる。しかし、この2人が愚かだと単純に割り切れるだろうか?

「こんな映画にマジになっちゃってどうすんの」なんて言われそうだが、ビートたけしさんは主人公大友に自身を投影しているであろうし、立場の異なるキャラとして繁田を配置しているはずである。時代に合わない生き方をしているけれども、そんな合わない生き方を貫く男の姿に自分を重ね合わせる気持ちがあったはずである 。それはまた、信念のない生き方やマネーゲーム(金を稼げば偉いとか、手段が正当化されるとか、人の上に立つとか、およそ義理のない種の生き方)に辟易とした気持ちがあり、そのことを受け入れている社会が正しいものかどうか疑問を投げかけているかのようである。山王会も花菱も人が死にまくり、残ったのは老獪さはあれど全盛期のような気迫のないロートルたちのみ。早晩、日本から極道はいなくなり韓国マフィアに日本国がシマにされる未来は避けられそうもなさそうだ。閉塞感につきる。この結末はなにを暗示しているのだろう。

筋を通すとかケジメをつけるってのはゴミクズであるヤクザのちっぽけな矜持(ピカレスクで捉えれば美学)であろう。そんなものでも貫けないなら、もう終わりなのかもしれない。

思えばアウトレイジシリーズは、木村との出会いと共闘と別れ、そして木村の仇打ちでまとまっている。大恩ある会長に迷惑をかけてまで、木村の仇を討った。だから、ケジメをつけなくてはならない。終わりとはあっけないものである。

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2017年09月28日

(映画感想)エイリアン・コヴェナント

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 本作は、「エイリアン」は俺の創り出した作品なんじゃあ!文句あるかコノヤロー!と叫ぶリドリースコットさんの三部作の二作目であります。

 え、前作あったの?と思われた方は「プロメテウス」をご覧ください。本作はアレの続編です。そして続編(最終作)が予定されています。「プロメテウス」が「人類の起源がウンタラ」とテーマにしていたようで実はそんなことはさして重要でなかったぜと真顔展開したもんだから駄作認定されてしまいましたが、実際のところは、人類の起源がどうたらではなくエイリアンの誕生が重要なテーマに据えられているようです。しかし誰もそんなことにさして興味はないと思います。エイリアンの生みの親は俺だぜとリドリースコットさんは声を大にして事実化したくてたまらないものですから、止めることはできないのです。巨匠は、最後に自身の最高傑作を形として残したい衝動に駆られるものなのでしょう。

 リドリースコットさんは確かな実力のある監督ですから、「エイリアン」エッセンス路線から外れずフィルムに仕上げてくる手腕は見事。ただ、やはり「エイリアンの誕生」なんかに今更あまり興味を惹かれない現実を打破することは難しいわけで、大傑作と太鼓判を押せるまでには至らないように思います。

 全編にわたって「エイリアン(1)」を彷彿とさせる要素が散見していますから、ストーリーがその前日譚でありながら、「エイリアン(1)」のリブートでもあるようです。となると、続編は「エイリアン(2)」の内容のリドリースコットさん版が予想されるわけで、アクション大作に仕上げてくる可能性があります。器用な監督ですから、キャメロン監督の「2」を超える内容で三部作を仕上げてくれる期待が持てます。



エイリアンの誕生、人類の起源、犠牲、想像、そして人間らしさとは、etc…

 生命感が徹底して排除された寂寥とした空間を舞台に、SFホラーかなと思いきや存外に哲学が張り巡らされたストーリーが展開します。きちんと世界観が構築されていて、監督の高い実力が伺いしてます。イマイチ細かいところで疑問に思うSF設定や、壮大で重要な人類入植計画であるはずなのにドカタ臭とやっつけ感を隠しきれないクルーたちの人物像など、アレ感も散見してますが、同時に「そんなもん気にしなくていい感」が(好意的な意味で)根底に流れているのでB級映画ではなく、一線を張る大作に仕上がっています。個人的に気になったのは、作中で「エイリアン」が完全な生命体である存在のような扱いを受けているのですが、観客側はどうにもそう納得しきれないところが物語に熱中できない足枷になっていることでしょうか。

 キリスト教圏の人であれば、理解と関心が深まる内容ではないかと思われますが、とにかく小難しい話っちゃ話で、私も内容を誤解しているかもしれません。アンドロイドの「設定」は慎重にというテーマなのか、生命の創造者というのは神でもなんでもないという否定なのか、もうひとつうまく説明できません。とんでもなく後味の悪い映画だよということは断言できるのですが。
 
posted by ぎゅんた at 20:32| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月31日

(映画感想)「スーパーバッド 童貞ウォーズ」竿が玉でサンドイッチされるよな!




冴えない童貞3人組が脱・童貞を目指して奮闘するコメディ。男版「セックス・アンド・ザ・シティ」を想像する向きもあろうが、あそこまでセクシャルパコ描写はない。が軽妙な下ネタギャグは同様に炸裂する。

陽気なスケベとむっつりスケベと変人スケベが主要メンバーである童貞どもなのだが、物語は2つのグループに分かれて進行すつ。陽気とむっつりのコンビと、不良警官2人組みと一緒になっちゃう変人気質の2つのグループである。

冒頭の電話トークの内容が真剣にアホで、本作品がどんな路線か親身に理解できる導入シーンで掴みはバッチリ。米国のハイスクールが舞台とあれば当然ながらそこにはスクールカーストの枠があり、童貞3人組とくればナードに決まっているわけで非リア充生活を強いられた日陰者生活を送ってきたことが説明なしにすぐに理解できる。ちょっと違うのは時期がハイスクール卒業直前で、あり、童貞を捨てたくてたまらない米国童貞高校生の魂の叫びがフィルム越しに伝わってくることである。ちゅかなんで卒業決まってるのに家庭科でティラミス作らなきゃならないんです!?ごもっとも。でもペアの意中のあの子から「今夜は両親がいないからウチでパーティへなの。あなたはいつもパーティにいないけど、来る?」お誘いを受けたから災い転じて福と成……ためには、21歳未満購入禁止であるアルコホール(お酒)を持って会場に馳せ参じなくてはならないタスクも転がり込む。さあ、今夜はお酒を用意してパーティ会場に行って酒を飲ませて酔わせてイイ雰囲気いやんエッチ展開にもちこまなきゃならねぇ急げ急げ!



本作で伝えたいメッセージは、

男によって本当に大事なものはなにか?
童貞を捨てることに躍起になるのは、第三者からみたら同調圧力に流された滑稽な姿じゃないの?
君を理解してくれるのは、同年代にいないだけかもしれないよ!

の3つではなかろうか。

パーティシーンはティーンサイドとアダルトサイドでも行われているイベントで、BGMが鳴り響き、お酒が用意されていて、ダンスに興じるのは共通。ティーンサイドではお酒は違法、アダルトサイドではコカインは違法。と、意図的な対比がなされているが、そこから読み取れる真意はハッキリ分からなかった。まさか米国の「パーティ文化」の紹介ではあるまい。背伸びせんでも、大人になっても同じことやるんだぜっていうことだろうか?そうすると子どものまま大人になったかのような不良警官ペアの存在が理解できる。コカインが登場するくだりがコメディ映画にしては乾いた不気味さのある空白シーンで余計に感じるが、作り手からの「一線を超えてはダメ」という警告とみるべきだろう。警らのパトを燃やすのも一線超えてそうな気がするがそこはそれ。

小難しく考えなくても良いのである。
童貞を捨てることなど些細なこと。好きな女の子には、格好つけたり勿体ぶる必要はない。君が好きだ・君が欲しいと素直に本心を伝えれば良いということだけ。そして、異性(男の子にとって=女の子)も大切だけれども、親友や、自分を理解してくれる友人も大切なのだということがフィルムを通して分かれば良いのである。人生には、イケてるネーちゃんのおっぱいを見てBoob!と喜びあうバカ友達が必要なのである。そしてそんな友達は案外に同年代にはおらず、年上の大人だったりもするものだ。狭い横のつながりに縛られた世界では、自分を理解してくれる視点をもつ友達がいなくても、おかしいことではないのだ。

物語の最後、エレベーターで分かれる主人公2人のそれぞれの表情が素晴らしい。意中の女の子とデートになる嬉しさがある一方で一抹の寂しさを感じている様子が出ている。デートが嫌なわけではない。気が置けない親友同士の付き合いほど心地よいものはないのだと、分かっているからである。この不思議で甘酸っぱい感覚が、映画の余韻を引き立てている。傑作。
 
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2017年08月06日

(映画感想)「メアリと魔女の花」 米林宏昌監督の気持ちをフィルムにのせて





まとめ
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「かまいたちの夜」というゲームに、有名な裏シナリオがある。製作者側の裏話をリアリティを込めて作品に投影したシナリオで、切り口を別にしたホラーテイストが衝撃的で話題になった。

邪推かもしれないが、本作「メアリと魔女の花」にも、裏シナリオを感じずにおれないものがあった。
本作で登場したキーアイテムやキーパーソンを以下のメタファーに当てはめてほしい。


ホウキ:アニメーションで表現できるもの/アニメーターの道具

夜間飛行の花:「スタジオジブリ」のパワー

魔法の書:スタジオジブリのハウツーや著作権、権利書

エンドア大学:スタジオジブリ

博士:宮崎駿

学長:鈴木敏夫

フラナガンさん:高畑勲

大学内の生徒や主従ロボ:スタジオジブリで働くスタッフ、イエスマン

モンスターに魔改造された動物たち:才能を持っていたけれど滅茶滅茶にされた有為な人材

ピーター:米林監督の信じるところの「才能」や「才覚」、とても大切にしたい無垢の的なもの



この視点で本作を見ると、米林監督の魂の叫びが透けてくるのである。

ホウキは、アニメーターがアニメーターたる証明であり、具現化のための道具である。夜間飛行の花は、とてつもない魔力の塊のような存在として描かれているが、これを用いる時、メアリは掌で花を潰す。すると水飴のような粘着質のある青色のスライムが発生する。この描写はどう捉えても爽やかさ(一般人が「魔法少女」に普通に期待するような、軽量感)とは無縁である。これをホウキの柄の刻印に摺り込むことでホウキが脈打ちムクムク大きく太くなり自活を開始する。空を飛べるようになる。

「あなたは稀代の天才だわ!」と学長と博士、学生らに称賛されたメアリは、ただ強大な魔力の塊を使っていただけに過ぎないし、赤毛の末裔が本質的に優れた魔女の血統である説明は語られどメアリが優れた魔女の資質を有していたかについての言及はない。米林監督は、自分は才能がある考えてはおらず、謙虚な姿勢であることがうかがえる。


魔法の書は、まさに魔力さえあればできぬことはない「呪文の神髄」であり、かけられた魔法を強制解除する魔法まで記されている。学長が血眼になって固執する様がなにを意味するか、あなたにも、分かるだろう。


エンドア大学は米林監督がみたスタジオジブリそのものである。瀟洒雄壮な外観だが、巨大な扉で外界から隔絶されている。排他的さしか感じられない。誰もいない大学と思わせておいて、内部には学生の姿がある。しかし、2度と出てこない。エレベーターで最頂上の教室でメアリたちをぐるりで出迎えたのは、透明になっていた学生たちである。メアリの魔力を目の当たりにして学長と博士に混じって拍手喝采する彼らに表情はない。ズタ袋を被っているからである。博士に主従するロボットは胸に穴が空いている

この大学では野心に狂うトップ2人が日夜、狂奔している。早口でなにをどう喋っているのか分からない人体改造した博士と、大学の発展と覇権拡大に取り憑かれた肥え太った楽長の姿が執拗に描かれる。彼らは、「昔は良い教育者」だったのである。この二人の存在感は圧倒的である。

大学の扉を抜けた先の中庭には薄気味悪いクリーチャーが見え隠れしている。大学内部には学生らの教室のほか、勉強に明け暮れる学生のために学食やレクリエーション施設を完備している。その一角に動物実験棟が備わっており、博士に「失敗もまた結果だ」と言われるモンスターが檻の中に閉じ込められている。

大学の外、長い階段下にあるホウキ置き場にはフラナガンさんがただ1人で存在し、饒舌で早口な、独り言に近い言動でメアリに接する。悪い人ではないが、完全に心許せるほど理解しあえそうな感じは最後までしない。ホウキへの愛情に満ちた超マイペースな人物である。窮地に立たされたメアリとピーターの前に現れ「ホウキを粗末に扱っちゃならん」と手渡し去っていく。学長に「フラナガンめっ!」と歯ぎしりされ、博士に「あいつは変わらんな」と言われていたりする。


捉えられたピーターは「若い方が魔法の影響が素直にでるから望ましい」と博士の実験材料にされる。この実験で博士がなんの誕生を求めているのかがよく分からない(博士本人だけは遮二無二)あたりが面白い。水色のスライムになったピーターは制御不能となり破壊活動を開始することになり、博士は「なんで失敗したんだ」と狼狽える。学長は魔力を吸われる。メアリとピーターは力を合わせて魔法の書にある「強制解除」の魔法を発動することでピーターの変身を解く。

一連の騒動が終息する。博士と学長は「魔法つかいだから生きてるでしょ」と安否の確認がないまま放置されるが、生きている。ただし、モンスターから魔法を解かれた動物たちに囲まれる場面で終わる。2人に寄り添うように集まってきたようにも見えるが、詰め寄られているようにも見える。

ホウキにまたがってピーターと帰途につくメアリは、シャーロットおばさんに鏡ごしに手渡された最後の花を手放し捨て去る。掌で潰しもしていないのに、花は空中に四散するのだった。スタジオジブリはもうなくなったし、米林監督は独立の道を歩み始めたからである。


以上は、誤った鑑賞の仕方かもしれない。しかし、こう見ないと本作は売れない凡庸な映画の烙印を押すことになる。ジブリ風作品を期待した大人には爽快感のないことにくる物足りなさを、子どもたちには薄気味悪さからくる興醒めをもたらす内容だからである。効果音がやたら尖っていて耳に煩く、陰鬱な雰囲気があり、不気味なエッセンスの露呈を隠しもしないこの作品は、およそ多くの観客の期待を裏切ってしまう出来だからである。

しかし、米林監督のスタジオジブリに対する印象、また「ポストジブリ」を背負わされたことに対する心情と答えをアニメーションに仕上げたのが本作であると考えるのであれば、本作は途端に生々しいメッセージを、実に生き生きと伝えてくるのである。

なお、「電気も魔法である」ということと、博士の実験の暴走の描写から原子力発電への否定的な見解を示すメッセージを醸し出しているが、断言してもよいがブラフである。宮崎駿が原発が大嫌いなことを承知の上で、狂気にひた走る博士にメルトダウンさせているだけである。
 
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2017年08月02日

(映画感想)「ジョニー・マッド・ドッグ」




子どもには安定した社会と大人の庇護と教育が不可欠だと思い知らされる映画。戦争映画の範疇に入る作品だと思われるが、派手な戦闘シーンや残虐描写はない。暴力描写よりも、銃を持って殺人をも厭わない子どもの姿を克明に映している。ストーリーのある映画だが、ところにドキュメンタリさが感じられたりして、冷たく残忍な現実をフィルムを通して伝えてくる。「カティン森」や「ホテル・ルワンダ」のような、視聴することで魂を抉らるタイプの作品。

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アフリカを舞台にした映画は数あれど、どれもこれも内戦の哀しみが描かれるきらいがある。まるでアフリカは内戦で大地を血で染め尽くしていると言わんばかりである。アフリカ各国の発展が遅いのは、内戦が起きざるを得ない国家間構造(構造的に民族対立を煽りに煽るスタイル)と不安点な政情による貧困に原因があるのであって、アフリカ人の知能が低いとか、赤道近辺の人種は怠け者だとかいう意見は偏見に満ちた的外れである。政治・経済が安定すると、社会情勢が安定し、発展の道を辿ることになるのが普通だ。ただし、アフリカは民族対立が蜂起しやすい構造にあるために、いいところまで行くと内戦がおこって「ポシャる」ようである。海外に留学にでた知識層は国に帰らず、良識ある治世者は心が折れそうになっているのである。アフリカで発展しているイメージにある国家は南アフリカ共和国であるが、犯罪率は依然と高いようである。このまま数十年、国が維持されていけば時間が社会の安定化に寄与するものと思われる。勿論、私はアフリカ詳しいわけではない。世界中の多くの人も、そうだろう。アフリカに関する情報をニュースや書籍や映画で得ているに過ぎない。

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舞台は作品中では明らかにされないがリベリアのようだ。リベリアには、過去の内戦時の混乱を生き残った人や少年兵が今も民主の中にいて普通に生活しているそうである。内戦が終われば、職を解かれる兵士もいるわけで、本作の主人公ジョニーもそのような扱いだ。悲壮な姿が描かれる。少年兵というのは、大人の都合に理不尽に巻き込まれて人格も人生をめちゃめちゃにされた使い捨てのような哀れな走狗だということである。この作品のフォーカスは少年兵の姿にあり、彼らを産んだり利用している大人の姿は控えめである。そこがまた、救いの無さを強調している。
 
posted by ぎゅんた at 12:36| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月01日

(映画感想)「エンド・オブ・キングダム」


「エンド・オブ・ホワイトハウス」の続編。主人公補正バリバリのタフネスSPが、警護の対象である米国大統領をあろうことかバディにするように立ち回るスーパー脳筋アクション映画。

現代は平和を享受していると思いきや、テロの脅威と恐怖に常に包まれた世界である。我々はいつテロの厄災にあうか分からない不安と共存しているのである。テロは、デカイ顔をしたがる西側先進国の東側陣営へのちょっかいによる文化的軋轢が引き金で始まり、小競り合いが生じ、大国の思惑が横入りしてきて泥沼と化し、憎悪と復讐の連鎖で雪だるま式に成長して収拾がつかなくなるものである。本作のストーリーラインの根本も、そんなところにある。西側も東側も、お互いを尊重して絶対非干渉を貫くならテロなんて起きないと考えるのはお花畑だが、そう信じたくもなるし、実現したら面白い気がする。だが、同じ惑星に住み気象や資源を共有している以上、非干渉は叶わぬ夢なのである。従って人類は、国境を引いて区別されるべき集団を形成する。家族が住む家の中にだって壁や仕切りがあるのだから当然だ。お互いのために線引きが必要であるし、それがマナーなのである。いまや「世界市民」を信奉するのは左翼かぶれぐらいのものだろう。ありえないのである。

本作は、結局のところはアメリカ万歳映画である。直情的ですらある。そこには「米国最高!!あ、まあ英国もいいよねオレらの親だもんね」な意識が透けてみえる。ドイツ・フランス・イタリア・日本のトップはバカ扱い。ロシアが登場しないのはギャグ扱い。中国の姿が全くなかったのは意外。米国のパートナーは英国だぜ!のスタンスを演じる一方で中国を絡ませると「色々と面倒」だったのが事実かもしれない。

テロを引き起こされることになった遠隔攻撃への反省の念はないので、最後にまた同じことをするあたりは真顔なのかしたり顔なのかギャグか分からなくなる。米国映画なのだから当然かもしれないが、せっかくテロを題材としているのなら、もう少し小難しいエッセンスを加えても良かったのではないか。そうすると、アクション押しが叶わなくなるので、アクション重視に舵を切ったのだろう。実際、感心するほどまでにアクションシーンが多い。暴力描写は控えめであるが、お腹いっぱいになれるは必至である。

米国は、テロで巻き込まれる一般人への配慮がないと指摘される。そんなもん東側のが酷いだろと思わないでもないが、それはそれとして、安全な場所からターゲットを確実に仕留めるなら、犠牲はつきものだとする意識は確実にある。西側の映画では、常に一般人や子どもに被害が及ばないよう配慮する軍の姿勢が強調されるのは、実態が異なるからである。だから、従軍した兵士が精神に異常をきたす。無関係の人質を殺してしまって平然としていられるほど人間は器用ではない。

この映画では、テロで巻き込まれる一般人についての謝罪はない。一方で、テロを起こす犯人への無慈悲で異常ともいえる憎しみは燦然としている。テロを起こす連中など殲滅したくてたまらない米国の恐怖が透けてみえる。テロで巻き込まれる一般人にしても、テロ組織の人物とつながりがわずかでもあればそれは共謀者であるから構わないと考えている姿勢も透けてみえる。テロを画策する連中とつながりがあろうものなら一方的に殺されても文句も言えない社会を目指しているように思える。昨今、国家を紛糾させたテロ等準備罪への曖昧模糊とした気持ち悪さの正体がここにある気がするのである。
 
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2017年06月27日

(映画感想)「アウトバーン」




タイトルとPV動画から「麻薬の運び屋がアウトバーンを爆走するかアクション映画」を想像したものであったが、そんなことはなかった。惚れた女のために体を張る、割と真っ当なアクション映画で、その中にアウトバーンとカーアクションが混じったものだ。原題は「COLLIDE」であり、そこにはアウトバーンの意味はいささかも含まれない。本邦上映の際のタイトル改変が、中身に誤解を招くようなものであるべきではない。とはいえ、「コライド」と直訳タイトルであってもインパクトに欠けてしまうのだが。

結論から感想を述べてしまうと、本作は「平均点以上の出来のカーアクションもの」になる。濃く短く、テンポの良い内容にするために描写を端折ったのだろうが、それが説明不足となって満足感を削いでしまっているところがある。これが惜しいところで、もう少し丁寧な描写を織り込んでいれば、評価が高くなった作品であろうと思うのである。

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例えば主人公は、自動車泥棒を派手にやりすぎて米国に居られなくなったことが述べられる。その際に「自動車泥棒の天才だ」みたいな修飾もつく。しかしアッサリすぎる。この作品で主人公は持ち前のドライビングテクニックと、なにより自動車ドロのスキルを発揮して活路を切り開いて行くだけに、説明が足りない。

自動車泥棒に必要な心得や哲学、過去の経験などを相棒に説いたりするシーンが序盤に少し設けるだけでこれは回避できたはずだし、なにより主人公が活路を切り開くシーンに説得力が出て盛り上がったはずだ。主人公補正や運が良いだけで切り抜けられたかのようにみえてしまうのは良くない。

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次に、主人公の相棒である。
実はものすごく仲が良く信頼し合った間柄だったのだなあと分かるのが最後の最後である。こうした「相棒」は、とかく裏切り役に転身するものである。そうでないなら、真のバディであることの説明がないと気持ち良さがない。また、バディとして活躍するシーンがほとんどないので、物語から外れてしまっている。男同士が信頼し合ったバディであることが明らかで、(この相棒が)もっと活躍してくれれば更に良い内容になっただろう。活かせる素材を無駄にしている感が強く、惜しいのである。

ヒロインは麻薬が原因で両親と別れた設定があまり活かされなかったかなと思う程度。正統派パツキン美女で、主人公が一目惚れするのも頷けるビジュアルがよろしい。高級車と美女は合うのである(このヒロインが高級車に乗るシーンはないけど)。

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ストーリーは深く考えなくて良い。高級車は乗り捨て感覚。道交法違反や騒動に巻き込まれた一般人の行方は知ったことではない。終盤にどんでん返しもある。しかし流石に無罪放免はないと思うのだが、海外の警察はいい加減なのか。娯楽アクション映画におけるストーリーは、作品のもつ「勢い」と「興」を削がない添え物であれば良いわけで、その意味では本作のストーリーは合致している。ただ、そこで動く駒である人物たちのフォーカスの点で不足があり、それが本作を視聴しての物足りなさにつながっている。

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ケチをつけるような感想になったが、要は深く考えずにみれば良いカーアクション映画である。暴力描写は低めで、恋愛描写が(この手のジャンルにしては)丁寧で中性的なのも特徴か。美しいケルンの街並みやドイツの風景が見ることができる観光ムービーとしても楽しめなくはなさそうだ。おヒマな時の一本にオススメの作品だ。

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2017年06月26日

(映画感想)「デスプルーフ」



終わったあとに妙な達成感のある刺激の強い娯楽「洋画」。映画って、こういう味があるものよね、という懐かしさを覚える内容。しかしセクシャル描写やバイオレンスさが強いところがあるので、子どもが見たら面白さ云々よりトラウマになりそうだ。大人が見ると、毒の強い、まあいつものタランティーノ作品として楽しめる。


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洋画というと、米国のどこかの田舎町を舞台にした活劇や物語をテレビ越しに日本語吹き替えで楽しむものであったと思う。私(30代半ば以降おっさんたち)は、そうだった。そうやって、異国の文化を知ったし、憧れたし、戦慄したりしたものだ。外国は、洒落ているなあ……と感じ入ったものである。エンディング近くになる頃にはもう眠くなってしまってコロンと寝てしまうのが常であった。


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この作品は、撮られた年代を差し置いてもかなり古臭い映像になっている。監督の計算尽くのようで、そういう作品として撮ったのである。子どもの頃に感じたあの「洋画」の味がするのも、当然のことだ。倦怠で停滞した空気に満ちた米国の田舎町と若者を題材に、セクシャル、暴力、カーチェイスといった、映画ならではのストレートな描写が押し込まれている。計算尽くのノスタルジック作品であるので、大ヒットすることはないだろうし、物語の進行や映像描写がネチッこいので好き嫌いが分かれてしまう作品だ。私は楽しめたが、それは、昔の洋画の雰囲気を懐かしく思うことのできる独自の心理があったからではないかと思う。


イカす曲が流れるエンドロールが始まる。
ところで、チアガール姿の女の子はどうなったんだ?
 
posted by ぎゅんた at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする