2017年11月25日

(映画感想)『ドライブ・ハード』輝く仕事をしているパパがナンバーワン!




まとめ
愛すべきゆる〜いB級映画

全方位中途半端型娯楽アクション映画。間違っても迫力あるカーアクションモノを期待してはいけません。表紙詐欺だからであります。凄惨な死亡シーンが一部にあったりしますが、総合的にみればコメディ寄りのバディムービーにすぎません。しかし微妙にテンポが悪い。

シナリオは穴があるというか、整合性について真面目に考えられていません。「それっぽくなる素材は寄せ集めといたけど、制作費もないのに、そんな本格的に仕上がるわけねーじゃん」と開き直った感が満載。良識と根性で低予算を克服している姿勢が透けて見えます。

なんだかんだ独特というか、駄作だと言い切れない珍しいタイプの映画。もちろんB級。約束されたハッピーエンドの安心設計。もうちょっと頑張れ!と応援したくなるカナダ映画です。舞台はオーストラリア。2014年公開。



カーアクションモノを期待するべからず
古いとはいえ大排気量V8OHV搭載のマスタングに乗っているにも関わらず法定速度ドライブに勤めます。コーナーを曲がるときはなんとなくドリフト気味にリアを滑らせ、アクセントのようにシフトレバーをローギアにガチャッと入れたりガスペダルを踏みつけるカットが入ります。終始オートマ。役者がマニュアルの運転ができなかったからに違いありません。意外に思うかもしれませんがアメ公はマニュアル運転ができる人が少ないのです。モータージャーナリストのくせにマニュアル車に乗れない人もいます。そんなわけで米国には「最大のカーセキュリティはマニュアル車を選ぶことである」という、実しやかな格言があるぐらいです。

また、カーアクションに付き物のクラッシュシーンも全然ありません。登場するクルマも、ビンテージなマスタングを除けば安っぽいクルマしかでません。無駄を省く制作スタイルと思いきや、真相は制作費をケチっただけです。いきおい、クラッシュシーンが全く発生せず、外連味あるクルマも登場しない地味な内容になります。畢竟、黒色のビンテージ・マスタングの格好よさばかりが際立つわけでありまして、その清々さにかえって新鮮な印象を受けてしまうほどです。

そんなわけで、ワイルドスピード・シリーズのようなド派手なクラッシュや爆発、スピード感などこれっぽっちも存在しません。これでシナリオが良ければ「ソフトウェアの勝利だ!やった!爆死は避けられた!」と諸手を挙げての大勝利ですが、世の中そんなに甘くない。意識して意味ありげな設定を用意できたはいいものの、うまく料理することができていません。さしたる盛り上がりに貢献することなく、むしろテンポを悪くしてしまう始末であります。ワルモンの手先になってる警察のおっさんと連邦警察側のエージェント2人との結末とか相当に投げっぱなしで笑えます。実のところ、あまり笑えないシリアスで悲劇的なシーンのなのですが、シュールさが先に立って譲らないからです。そもそもケラーのキャラクタが矜持あるサイコ脳天プロ犯罪者のそれで、犯罪に巻き込んだ主人公への語りかけや仕草が地味に笑えるコメディ路線がストーリーにドンと横たわっています。主人公との掛け合いを楽しむロードムービーっぽさがあるのです。とはいえ素人漫才っぽいところを逸脱できていないので、コメディとして突き抜けているレベルでないのが残念なところ。中盤に登場する結婚式場兼ブドウ園の老夫婦の方が笑いのレベルでは突き抜けてます。怖いのは犯罪者よりもイかれたばあちゃんです。躊躇なくリボルバーを発砲して殺しにくるからです。次に怖いのが、夫を尊敬の対象として見なくなる妻の残酷さでしょう。安いサラリーしか得ないパパは、それだけで愛さない理由に直結するからです。

ケリーは頑迷でとっつきにくい男ですが、強い哲学をもっていることが、彼の口から出る言葉の端々に込められています。ポリシーから含蓄ある説法まで幅広い。殺しはやらない、犯罪者は信用しない、妻は夫の尊厳を蔑ろにするべからず、欲深いから死ぬ、人は欲望を抑え互いに思いやることが大切、泥棒でも約束は守る。
…なかなかに良いキャラクターをしておりまして、本作における大きな魅力に貢献しています。

思えばドライブとは、助手席の人間と車内という閉鎖空間でアレコレと会話する行為でもありますから、こんな濃いキャラクターが助手席にいれば、なるほどハードなドライブに違いますありません。いうまでもなく、このドライブには、「人生の歩み」としての意味も込められていることが分かります。バカ映画と思いきや、含みがあるのです。



緩いB級映画が好きな方は是非
どうも本作は駄作と名高い、困った一本のようです。確かにそう断じたくなる不甲斐ない出来の部分が目立っているにせよ、味わい深い妙に魅力的な部分があったりするところが印象的です。

正直者が馬鹿を見る社会って、やっぱり間違ってるよね、と考えつつも日々の生活に忙殺されている貴方の休息日に気楽に見るべき一本だと思います。

posted by ぎゅんた at 22:33| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

(映画感想)『孤高のメス』



大鐘稔彦氏の小説『孤高のメス』の実写映画。小説よりも、これの漫画原作となる『メスよ輝け!』の方が有名かもしれない。その漫画にしても、1990年代に連載されていたものであるから、古い内容だ。それを実写化しようというのであるから、今更感を否定できないところがあろう。しかしそれは礼を失した杞憂である。上手に練り上げられた脚本によって見事な実写映画に仕上がっている。原作ファンの殆どが納得するだろう。


メス、とあるように本作は外科医を主人公にした医療ものである。
民間病院で患者の命を救うことを第一に考えている凄腕の外科医・当麻鉄彦と、大学病院医局との確執や軋轢をドラマに盛り込んでいる。時代背景は1989年で、命を救うための肝臓移植についてメインテーマとなる

医療漫画といえば『ブラックジャック』が有名だが、内容的に荒唐無稽である。一方この『メスよ輝け!』は脂の乗った現役医師の書いたシナリオであり、当麻鉄彦の医師としての真摯な姿勢と権威主義的な大学病院の姿勢が対比的であり、またリアルに描かれている。『白い巨塔』をより漫画的に親しみやすくした感じか。とにかく主人公である当麻鉄彦が魅力的な外科医で惚れ惚れする。こんな医者がいてくれれば……と誰もが思うだろう。対比されるように、腕も人格も未熟でありながら態度だけは一人前以上な尊大な医者がわんさと登場するので余計にその念を強くする。現実的には医者も人間であるから、不器用で下手な者もいるし、感情的で欲深い生き物であることを殊更に批判しきれないものである。当麻鉄彦は極めて例外的なのであり、ひとつの理想像に違いない。しかし、患者の命を救うことだけを考え、腕が立ち、恬淡とした人格者であるこの外科医は本当に格好良く、実在してくれることを願うばかりの気持ちにさせられる。自己犠牲を厭わず患者に尽くし、素人と専門家の距離を把握した上でコミュニケーションをとり、最善の治療を行う。そこには深い信頼関係がある。だからこそ、命と真正面から向かい合う熱いドラマが生まれる。

本作『孤高のメス』も『メスよ輝け!』も、主人公は当麻鉄彦であるが、若干、キャラクターお味付けが異なる。どちらも石部金吉タイプなのであるが、映画版の方は朴訥さが強調された感じである。漫画版は僅かに感情的で純朴さが強調される。いずれにせよ「当麻先生が実在するなら、こうであろう」という想像にピタリ合致しているのは見事で、これは采配と役者の演技力の賜物であろう。

当麻鉄彦はひとつの理想的な医師の姿であるなら、その反対もまた存在する。漫画原作『メスよ輝け!』や、同原作の『青ひげは行く』『ザ・レジデント』に山のように出てくる。かなり生々しいエグさで、「実際にこんな医者が少なくないのかな…」と暗澹たる気持ちにさせられること請け合いだ。大鐘稔彦先生が、こういうダメ医師に煮え湯を飲まされる思いを散々にされてきたのか、世の医師たちへの反面教師としての警句なのか。医学がどれほど進歩しようと、いつまでたっても「良い医者の選び方」特集が消えることはない。


オススメ映画。邦画好きなら迷うことはない。
実写映画に食指は動かないが医療もの漫画は好き、という方は漫画の方を。『青ひげは行く』『メスよ輝け!』『ザ・レジデント』の順でオススメだ。

posted by ぎゅんた at 22:41| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

(映画感想)『ザ・ゲスト』


the guest_film.jpg


そこはかとないチープさが、作品の質をエエ感じに仕上げることに成功したB級映画。

なにしろタイトル場面から噴飯ものなのである。しかし出オチではない。「悪くないな」と思えば最後まで鑑賞していることだろう。そして、あなたのB級作品コレクションに燦然と加わることになるだろう。映画鑑賞が好きな人はみておこう。米国の田舎町を舞台にしたスリラー事件の始まりだ。

礼節ある精悍な人物デイビッドを信じて自分たちのテリトリーに入れたことで町をも巻き込む大惨事になっていまう物語である。全体的に懐かしい雰囲気を感じられる。こどもの頃に楽しんだ「洋画」に出会えた感じだ。

相手の信頼を得るには、まず見た目の良さと礼節、そして自分が役に立つ存在であることをアピールすることである。ピーターソン一家がデイビッドに失った息子ケイレブを重ね合わせるまでに時間は要さない。デイビッドはピーターソン一家を懐柔させることが目的ではなく、ケイレブとの約束である「家族を頼む」を純粋に守るために訪問しているので真剣なのである。しかし、そんなデイビッドの言動の端々から、異端さが垣間見えるようになり、次第に彼の正体が明らかになるところが本作のハイライト。起承転が無駄なくコンパクトに、ちょっとした遊び心の描写もあったりで飽きないクオリティ。久々に出会えた掘り出しモノ。オススメ。R-15作品。

http://the-guest.jp/
posted by ぎゅんた at 08:22| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月12日

(映画感想)「ブラックブック」簡単に他人を信用するなかれ


「アイアン・スカイ」みたいなパッケージ疑惑


ポール・バーホーベンが好きなくせに見逃していた一本。
ノンフィクションに着想をフィクションとのことである。

STORY
1944年9月、ナチス・ドイツ占領下のオランダ。美しいユダヤ人女性歌手ラヘルは、ナチスから逃れるため一家で南部へ向かう。しかし、ドイツ軍の執拗な追跡にあい、ついには彼女を除く家族全員を殺されてしまう。その後、レジスタンスに救われたラヘルは、ユダヤ人であることを隠すため髪をブロンドに染め、名前をエリスと変え彼らの活動に参加する。そしてナチス内部の情報を探るため、ナチス将校ムンツェに接近、彼の愛人となることに成功する。


この物語をオランダ人であるバーホーベン監督がオランダで撮影したもの、というところがミソである。主人公ラヘルはユダヤ人であり、キリスト教を押し付けられる皮肉がきいている。伏線のきいたミステリアスな物語になっており、翻弄されがちで油断ならない展開をみせる。解放されたオランダ人たちが狂気の暴徒と化し、醜いと言わざるを得ない人間性を露わにするところもまた、バーホーベンらしさに満ちている。しかしまあ、なんと嫌なところを突いてくる監督であろう。

キリスト教でないピンとこないかもしれないが、ラヘルがどれだけの精神的苦痛や屈辱を味わったかは、ユダヤ人やキリスト教圏の人なら身につまされて分かるはず。肩身のペンダントを使って棺の十字架のネジを締め上げるシーンのとんでもない圧迫感を映像で伝えてくる手腕は見事としか言いようがない。

ユダヤ人は、自分たちユダヤ人以外を心の底から信用することはできない不治の病に侵されているように思えてならない。そのことを誰が咎められようか。教育にリソースを割き、知力を磨き、野心とバイタリティに溢れ、資金にモノをいわせて業界を裏から支配しようとするユダヤ人を羨むことも非難することも簡単だ。しかし、ユダヤ人以外に真似できる人種はいそうもないし、正すこともできない。
 
posted by ぎゅんた at 18:38| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

(映画感想)「ショーガール」なにがラズベリー賞だ傑作じゃねかコノヤロー



鬼才ポール・バーホーベンの渾身の一作。

バイタリティと才能恵まれた直情型無敵セクシーねーちゃんがラスベガスを舞台にストリッパーからスターダンサーへと駆け上るスポ根ムービー。

人間の様々な面を包み隠さずありのままにフィルムに焼き付けるのが趣味(斜線)主義のバーホーベンらしさが大炸裂している。いきおい、極めて濃いヒューマンドラマに仕上がっている。別にストリッパーでなくても、本作のストーリーは成功しただろう。なぜストリッパーを題材に?「バーホーベンだから」に決まっている。

「下品な内容である」と断じればそれまでかもしれない。バーホーベン作品につきものである「嘔吐と強姦」が存在するし、ポルノシーンも存在する。下品、といっても論ずるに値しない低俗な下品さではなく、人間もまた動物であるところのセクシャリティさを隠していないところの下品さに過ぎない。

主人公ノエミは頭の弱そうで理性のない直情的な女ではあるが、才能と度胸にものを言わせてスターダムにのし上がっていく。もちろん、自分ひとりの力でそれを成すのではない。友人や仕事相手やライバルキャラたちと出会い、ぶつかり、成長したからこそ、夢を実現させるのである。単純で熱いスポ根ドラマが根底にある。バーホーベンなので、そこらへんの描写がちょっと生々しかったりするだけだ。

色々なことがあって、夢みたトップダンサーの地位をナオミは捨てる、ラスベガスを去る決意をする。失望もあったし、親友の復讐のためでもあった。なにより、最後の最後でライバルキャラであるクリスタルと本当の意味で心が通い合い、打ち解けることができたからであった。この最後のシーンの、言葉にできない美しさが素晴らしく圧倒されることだろう。ラスベガスを去っていくノエミに後悔も暗さも微塵もなく、物語は明るく幕を降ろすのである。

本作をラズベリー賞にした審査員はアホである。どう擁護しても、作品を鑑賞していないだろうとしか言えない。そんな連中を嘲り笑うことは簡単だ。本作を鑑賞すれば良いのである。オススメ。
 
posted by ぎゅんた at 18:31| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月09日

(映画感想)「アウトレイジ 最終章」


やくざ対やくざ.jpg
↑これは「たけしの挑戦状(1986年) 映画公式サイトは→こちら


全編に渡って陰鬱と寂寥さが貫かれているアウトレイジ最終章。
派手なドンパチも高いカタルシスもなく、前作で本職と見誤るような胃を見せた花菱の重鎮の姿もなくなっている。コントラストに欠いた世界観の中を物語淡々と進行する感じなので、物足りなさをおぼえるかもしれない。

主人公・大友は義理堅い無法者である。昔気質というか、古くさい極道そのものである。「ビヨンド」でもそうだったが、部下である若い衆を大切にしている。しかし善人ではないので、敵であれば平然と殺害する。

意図的にえがかれているのが主人公・大友とマル暴刑事・繁田のスタンスである。両者は立場は違えど、自分のアイデンティティを確固として有し、己の信ずる道を行こうとする。信念でもあり一本気でもあるが、決して良い結果が約束されるわけではない。上手に立ち回らなくては利用されるだけで出世はおぼつかない。そのためには嘘をついたり騙したり、自分を偽らなくてはならない。それができない不器用な男は、舞台から降りるしかない。大友は死に、繁田は辞表をだすことになる。しかし、この2人が愚かだと単純に割り切れるだろうか?

「こんな映画にマジになっちゃってどうすんの」なんて言われそうだが、ビートたけしさんは主人公大友に自身を投影しているであろうし、立場の異なるキャラとして繁田を配置しているはずである。時代に合わない生き方をしているけれども、そんな合わない生き方を貫く男の姿に自分を重ね合わせる気持ちがあったはずである 。それはまた、信念のない生き方やマネーゲーム(金を稼げば偉いとか、手段が正当化されるとか、人の上に立つとか、およそ義理のない種の生き方)に辟易とした気持ちがあり、そのことを受け入れている社会が正しいものかどうか疑問を投げかけているかのようである。山王会も花菱も人が死にまくり、残ったのは老獪さはあれど全盛期のような気迫のないロートルたちのみ。早晩、日本から極道はいなくなり韓国マフィアに日本国がシマにされる未来は避けられそうもなさそうだ。閉塞感につきる。この結末はなにを暗示しているのだろう。

筋を通すとかケジメをつけるってのはゴミクズであるヤクザのちっぽけな矜持(ピカレスクで捉えれば美学)であろう。そんなものでも貫けないなら、もう終わりなのかもしれない。

思えばアウトレイジシリーズは、木村との出会いと共闘と別れ、そして木村の仇打ちでまとまっている。大恩ある会長に迷惑をかけてまで、木村の仇を討った。だから、ケジメをつけなくてはならない。終わりとはあっけないものである。

posted by ぎゅんた at 21:45| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月28日

(映画感想)エイリアン・コヴェナント

alien_covenant_film.jpg

 本作は、「エイリアン」は俺の創り出した作品なんじゃあ!文句あるかコノヤロー!と叫ぶリドリースコットさんの三部作の二作目であります。

 え、前作あったの?と思われた方は「プロメテウス」をご覧ください。本作はアレの続編です。そして続編(最終作)が予定されています。「プロメテウス」が「人類の起源がウンタラ」とテーマにしていたようで実はそんなことはさして重要でなかったぜと真顔展開したもんだから駄作認定されてしまいましたが、実際のところは、人類の起源がどうたらではなくエイリアンの誕生が重要なテーマに据えられているようです。しかし誰もそんなことにさして興味はないと思います。エイリアンの生みの親は俺だぜとリドリースコットさんは声を大にして事実化したくてたまらないものですから、止めることはできないのです。巨匠は、最後に自身の最高傑作を形として残したい衝動に駆られるものなのでしょう。

 リドリースコットさんは確かな実力のある監督ですから、「エイリアン」エッセンス路線から外れずフィルムに仕上げてくる手腕は見事。ただ、やはり「エイリアンの誕生」なんかに今更あまり興味を惹かれない現実を打破することは難しいわけで、大傑作と太鼓判を押せるまでには至らないように思います。

 全編にわたって「エイリアン(1)」を彷彿とさせる要素が散見していますから、ストーリーがその前日譚でありながら、「エイリアン(1)」のリブートでもあるようです。となると、続編は「エイリアン(2)」の内容のリドリースコットさん版が予想されるわけで、アクション大作に仕上げてくる可能性があります。器用な監督ですから、キャメロン監督の「2」を超える内容で三部作を仕上げてくれる期待が持てます。



エイリアンの誕生、人類の起源、犠牲、想像、そして人間らしさとは、etc…

 生命感が徹底して排除された寂寥とした空間を舞台に、SFホラーかなと思いきや存外に哲学が張り巡らされたストーリーが展開します。きちんと世界観が構築されていて、監督の高い実力が伺いしてます。イマイチ細かいところで疑問に思うSF設定や、壮大で重要な人類入植計画であるはずなのにドカタ臭とやっつけ感を隠しきれないクルーたちの人物像など、アレ感も散見してますが、同時に「そんなもん気にしなくていい感」が(好意的な意味で)根底に流れているのでB級映画ではなく、一線を張る大作に仕上がっています。個人的に気になったのは、作中で「エイリアン」が完全な生命体である存在のような扱いを受けているのですが、観客側はどうにもそう納得しきれないところが物語に熱中できない足枷になっていることでしょうか。

 キリスト教圏の人であれば、理解と関心が深まる内容ではないかと思われますが、とにかく小難しい話っちゃ話で、私も内容を誤解しているかもしれません。アンドロイドの「設定」は慎重にというテーマなのか、生命の創造者というのは神でもなんでもないという否定なのか、もうひとつうまく説明できません。とんでもなく後味の悪い映画だよということは断言できるのですが。
 
posted by ぎゅんた at 20:32| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月31日

(映画感想)「スーパーバッド 童貞ウォーズ」竿が玉でサンドイッチされるよな!




冴えない童貞3人組が脱・童貞を目指して奮闘するコメディ。男版「セックス・アンド・ザ・シティ」を想像する向きもあろうが、あそこまでセクシャルパコ描写はない。が軽妙な下ネタギャグは同様に炸裂する。

陽気なスケベとむっつりスケベと変人スケベが主要メンバーである童貞どもなのだが、物語は2つのグループに分かれて進行すつ。陽気とむっつりのコンビと、不良警官2人組みと一緒になっちゃう変人気質の2つのグループである。

冒頭の電話トークの内容が真剣にアホで、本作品がどんな路線か親身に理解できる導入シーンで掴みはバッチリ。米国のハイスクールが舞台とあれば当然ながらそこにはスクールカーストの枠があり、童貞3人組とくればナードに決まっているわけで非リア充生活を強いられた日陰者生活を送ってきたことが説明なしにすぐに理解できる。ちょっと違うのは時期がハイスクール卒業直前で、あり、童貞を捨てたくてたまらない米国童貞高校生の魂の叫びがフィルム越しに伝わってくることである。ちゅかなんで卒業決まってるのに家庭科でティラミス作らなきゃならないんです!?ごもっとも。でもペアの意中のあの子から「今夜は両親がいないからウチでパーティへなの。あなたはいつもパーティにいないけど、来る?」お誘いを受けたから災い転じて福と成……ためには、21歳未満購入禁止であるアルコホール(お酒)を持って会場に馳せ参じなくてはならないタスクも転がり込む。さあ、今夜はお酒を用意してパーティ会場に行って酒を飲ませて酔わせてイイ雰囲気いやんエッチ展開にもちこまなきゃならねぇ急げ急げ!



本作で伝えたいメッセージは、

男によって本当に大事なものはなにか?
童貞を捨てることに躍起になるのは、第三者からみたら同調圧力に流された滑稽な姿じゃないの?
君を理解してくれるのは、同年代にいないだけかもしれないよ!

の3つではなかろうか。

パーティシーンはティーンサイドとアダルトサイドでも行われているイベントで、BGMが鳴り響き、お酒が用意されていて、ダンスに興じるのは共通。ティーンサイドではお酒は違法、アダルトサイドではコカインは違法。と、意図的な対比がなされているが、そこから読み取れる真意はハッキリ分からなかった。まさか米国の「パーティ文化」の紹介ではあるまい。背伸びせんでも、大人になっても同じことやるんだぜっていうことだろうか?そうすると子どものまま大人になったかのような不良警官ペアの存在が理解できる。コカインが登場するくだりがコメディ映画にしては乾いた不気味さのある空白シーンで余計に感じるが、作り手からの「一線を超えてはダメ」という警告とみるべきだろう。警らのパトを燃やすのも一線超えてそうな気がするがそこはそれ。

小難しく考えなくても良いのである。
童貞を捨てることなど些細なこと。好きな女の子には、格好つけたり勿体ぶる必要はない。君が好きだ・君が欲しいと素直に本心を伝えれば良いということだけ。そして、異性(男の子にとって=女の子)も大切だけれども、親友や、自分を理解してくれる友人も大切なのだということがフィルムを通して分かれば良いのである。人生には、イケてるネーちゃんのおっぱいを見てBoob!と喜びあうバカ友達が必要なのである。そしてそんな友達は案外に同年代にはおらず、年上の大人だったりもするものだ。狭い横のつながりに縛られた世界では、自分を理解してくれる視点をもつ友達がいなくても、おかしいことではないのだ。

物語の最後、エレベーターで分かれる主人公2人のそれぞれの表情が素晴らしい。意中の女の子とデートになる嬉しさがある一方で一抹の寂しさを感じている様子が出ている。デートが嫌なわけではない。気が置けない親友同士の付き合いほど心地よいものはないのだと、分かっているからである。この不思議で甘酸っぱい感覚が、映画の余韻を引き立てている。傑作。
 
posted by ぎゅんた at 09:12| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

(映画感想)「メアリと魔女の花」 米林宏昌監督の気持ちをフィルムにのせて





まとめ
securedownload.jpg


「かまいたちの夜」というゲームに、有名な裏シナリオがある。製作者側の裏話をリアリティを込めて作品に投影したシナリオで、切り口を別にしたホラーテイストが衝撃的で話題になった。

邪推かもしれないが、本作「メアリと魔女の花」にも、裏シナリオを感じずにおれないものがあった。
本作で登場したキーアイテムやキーパーソンを以下のメタファーに当てはめてほしい。


ホウキ:アニメーションで表現できるもの/アニメーターの道具

夜間飛行の花:「スタジオジブリ」のパワー

魔法の書:スタジオジブリのハウツーや著作権、権利書

エンドア大学:スタジオジブリ

博士:宮崎駿

学長:鈴木敏夫

フラナガンさん:高畑勲

大学内の生徒や主従ロボ:スタジオジブリで働くスタッフ、イエスマン

モンスターに魔改造された動物たち:才能を持っていたけれど滅茶滅茶にされた有為な人材

ピーター:米林監督の信じるところの「才能」や「才覚」、とても大切にしたい無垢の的なもの



この視点で本作を見ると、米林監督の魂の叫びが透けてくるのである。

ホウキは、アニメーターがアニメーターたる証明であり、具現化のための道具である。夜間飛行の花は、とてつもない魔力の塊のような存在として描かれているが、これを用いる時、メアリは掌で花を潰す。すると水飴のような粘着質のある青色のスライムが発生する。この描写はどう捉えても爽やかさ(一般人が「魔法少女」に普通に期待するような、軽量感)とは無縁である。これをホウキの柄の刻印に摺り込むことでホウキが脈打ちムクムク大きく太くなり自活を開始する。空を飛べるようになる。

「あなたは稀代の天才だわ!」と学長と博士、学生らに称賛されたメアリは、ただ強大な魔力の塊を使っていただけに過ぎないし、赤毛の末裔が本質的に優れた魔女の血統である説明は語られどメアリが優れた魔女の資質を有していたかについての言及はない。米林監督は、自分は才能がある考えてはおらず、謙虚な姿勢であることがうかがえる。


魔法の書は、まさに魔力さえあればできぬことはない「呪文の神髄」であり、かけられた魔法を強制解除する魔法まで記されている。学長が血眼になって固執する様がなにを意味するか、あなたにも、分かるだろう。


エンドア大学は米林監督がみたスタジオジブリそのものである。瀟洒雄壮な外観だが、巨大な扉で外界から隔絶されている。排他的さしか感じられない。誰もいない大学と思わせておいて、内部には学生の姿がある。しかし、2度と出てこない。エレベーターで最頂上の教室でメアリたちをぐるりで出迎えたのは、透明になっていた学生たちである。メアリの魔力を目の当たりにして学長と博士に混じって拍手喝采する彼らに表情はない。ズタ袋を被っているからである。博士に主従するロボットは胸に穴が空いている

この大学では野心に狂うトップ2人が日夜、狂奔している。早口でなにをどう喋っているのか分からない人体改造した博士と、大学の発展と覇権拡大に取り憑かれた肥え太った楽長の姿が執拗に描かれる。彼らは、「昔は良い教育者」だったのである。この二人の存在感は圧倒的である。

大学の扉を抜けた先の中庭には薄気味悪いクリーチャーが見え隠れしている。大学内部には学生らの教室のほか、勉強に明け暮れる学生のために学食やレクリエーション施設を完備している。その一角に動物実験棟が備わっており、博士に「失敗もまた結果だ」と言われるモンスターが檻の中に閉じ込められている。

大学の外、長い階段下にあるホウキ置き場にはフラナガンさんがただ1人で存在し、饒舌で早口な、独り言に近い言動でメアリに接する。悪い人ではないが、完全に心許せるほど理解しあえそうな感じは最後までしない。ホウキへの愛情に満ちた超マイペースな人物である。窮地に立たされたメアリとピーターの前に現れ「ホウキを粗末に扱っちゃならん」と手渡し去っていく。学長に「フラナガンめっ!」と歯ぎしりされ、博士に「あいつは変わらんな」と言われていたりする。


捉えられたピーターは「若い方が魔法の影響が素直にでるから望ましい」と博士の実験材料にされる。この実験で博士がなんの誕生を求めているのかがよく分からない(博士本人だけは遮二無二)あたりが面白い。水色のスライムになったピーターは制御不能となり破壊活動を開始することになり、博士は「なんで失敗したんだ」と狼狽える。学長は魔力を吸われる。メアリとピーターは力を合わせて魔法の書にある「強制解除」の魔法を発動することでピーターの変身を解く。

一連の騒動が終息する。博士と学長は「魔法つかいだから生きてるでしょ」と安否の確認がないまま放置されるが、生きている。ただし、モンスターから魔法を解かれた動物たちに囲まれる場面で終わる。2人に寄り添うように集まってきたようにも見えるが、詰め寄られているようにも見える。

ホウキにまたがってピーターと帰途につくメアリは、シャーロットおばさんに鏡ごしに手渡された最後の花を手放し捨て去る。掌で潰しもしていないのに、花は空中に四散するのだった。スタジオジブリはもうなくなったし、米林監督は独立の道を歩み始めたからである。


以上は、誤った鑑賞の仕方かもしれない。しかし、こう見ないと本作は売れない凡庸な映画の烙印を押すことになる。ジブリ風作品を期待した大人には爽快感のないことにくる物足りなさを、子どもたちには薄気味悪さからくる興醒めをもたらす内容だからである。効果音がやたら尖っていて耳に煩く、陰鬱な雰囲気があり、不気味なエッセンスの露呈を隠しもしないこの作品は、およそ多くの観客の期待を裏切ってしまう出来だからである。

しかし、米林監督のスタジオジブリに対する印象、また「ポストジブリ」を背負わされたことに対する心情と答えをアニメーションに仕上げたのが本作であると考えるのであれば、本作は途端に生々しいメッセージを、実に生き生きと伝えてくるのである。

なお、「電気も魔法である」ということと、博士の実験の暴走の描写から原子力発電への否定的な見解を示すメッセージを醸し出しているが、断言してもよいがブラフである。宮崎駿が原発が大嫌いなことを承知の上で、狂気にひた走る博士にメルトダウンさせているだけである。
 
posted by ぎゅんた at 18:02| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

(映画感想)「ジョニー・マッド・ドッグ」




子どもには安定した社会と大人の庇護と教育が不可欠だと思い知らされる映画。戦争映画の範疇に入る作品だと思われるが、派手な戦闘シーンや残虐描写はない。暴力描写よりも、銃を持って殺人をも厭わない子どもの姿を克明に映している。ストーリーのある映画だが、ところにドキュメンタリさが感じられたりして、冷たく残忍な現実をフィルムを通して伝えてくる。「カティン森」や「ホテル・ルワンダ」のような、視聴することで魂を抉らるタイプの作品。

film_Johnny Mad Dog_02.jpg


アフリカを舞台にした映画は数あれど、どれもこれも内戦の哀しみが描かれるきらいがある。まるでアフリカは内戦で大地を血で染め尽くしていると言わんばかりである。アフリカ各国の発展が遅いのは、内戦が起きざるを得ない国家間構造(構造的に民族対立を煽りに煽るスタイル)と不安点な政情による貧困に原因があるのであって、アフリカ人の知能が低いとか、赤道近辺の人種は怠け者だとかいう意見は偏見に満ちた的外れである。政治・経済が安定すると、社会情勢が安定し、発展の道を辿ることになるのが普通だ。ただし、アフリカは民族対立が蜂起しやすい構造にあるために、いいところまで行くと内戦がおこって「ポシャる」ようである。海外に留学にでた知識層は国に帰らず、良識ある治世者は心が折れそうになっているのである。アフリカで発展しているイメージにある国家は南アフリカ共和国であるが、犯罪率は依然と高いようである。このまま数十年、国が維持されていけば時間が社会の安定化に寄与するものと思われる。勿論、私はアフリカ詳しいわけではない。世界中の多くの人も、そうだろう。アフリカに関する情報をニュースや書籍や映画で得ているに過ぎない。

film_Johnny Mad Dog_03.jpg


舞台は作品中では明らかにされないがリベリアのようだ。リベリアには、過去の内戦時の混乱を生き残った人や少年兵が今も民主の中にいて普通に生活しているそうである。内戦が終われば、職を解かれる兵士もいるわけで、本作の主人公ジョニーもそのような扱いだ。悲壮な姿が描かれる。少年兵というのは、大人の都合に理不尽に巻き込まれて人格も人生をめちゃめちゃにされた使い捨てのような哀れな走狗だということである。この作品のフォーカスは少年兵の姿にあり、彼らを産んだり利用している大人の姿は控えめである。そこがまた、救いの無さを強調している。
 
posted by ぎゅんた at 12:36| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする