2018年04月18日

(映画感想)『パシフィック・リム:アップライジング』 ずいぶん「ドリフト」も安くなったものだ


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日本語吹き替え版で鑑賞。

正直、期待しすぎていたこともあるし、自分の頭が固いこともあるのだが、駄作と唾棄したくなるほど楽しめない続編であった。明るい場面で巨大なイェーガー同士のスピーディな戦闘は小気味好いのだが、心が熱く沸き立って鑑賞できたわけではない。映画に集中できず、没頭できず、大スクリーンで流れる派手なCG動画を延々と見せられているだけのような虚しさがあった。『トランスフォーマー・ロストエイジ』のときも同じような心境だったのを思い出す。駄作具合で言えばアッチが上だが。


「正しく売れる娯楽作品」としての方向性は、本作が正しいのだと思う。明るいシーンが多く、ポップで、スピーディだからだ。しかし楽しめない。いちいち、引っかかるところが多すぎる。私には、合わない映画だった。

映画のストーリーにツッコミを入れるのは、怪獣KAIJYUが敵キャラクターとして登場し、人類がそれに対処すべく巨大二足ロボットを作っちゃう世界のお話である『パシフィック・リム』においては野暮な話。そしてまた、ツッコミを入れる行為自体を楽しんだりするものなのだが、本作では、ツッコミが全てスカスカに貫通するほど器が穴だらけというか、不満の指摘の応酬に過ぎないものであった。前作のノリを踏襲している部分もあるが、全くそうでない部分がはるかに多く感じた。

各所でも散々に指摘されているのだろうが、

1.登場人物らのキャラクターが立っていない
2.アナログな重厚感がない(動きが素早いのは、技術の進歩だとしても、質量感がない。ミニチュアの中で人型ロボットが派手に動き回っているだけに見える)
3.勿体無いキャラクターの使い捨て(マックス・チャンを出すならカンフーロボに乗せろや!マコは満身創痍でスクラッパーに乗るべきだったんちゃうの?)
4.とにかくスケールの小さい世界の話
5.ラスボスをあんなんでトドメ刺すの?

というあたりが気に入らない。

「中国押しがひど過ぎ」「東京の謎のアジア感」「富士山の裾野まで大都会」は、気にしなくて良い。制作会社であるレジェンダリ・ピクチャーズが中華資本になったし、前作が制作費を回収でき、続編の製作が決定したのは中国本土でヒットしたおかげでもある。そしてハリウッドはスポンサーありきの作品しか作らない。ただし、本作が今回も中国でヒットすると思っていたら、頭が少々おめでたいと思う。酷評まではされなくとも、前作ほどの評価は得られないのではないか。


個人的に気に入らなかったのは、主人公他の多数の登場人物らに魅力を感じなかったことである。何をそんな自信ありげに偉そうなのかと不快感すら湧く。英雄の息子だとか実は「やればできる子」設定とかアホらしくて共感する気持ちが1ミリもわかないので応援する気にならない。

ヒロイン面した前作のマコの二番煎じみたいな女も同様。あの時向こうに飛んでたら家族仲良くペシャンコに踏まれて死んでただけやぞ。メカニックさんとスクラッパーを魔改造するとか1人乗りイェーガーの開発に貢献するとかが本来の役割ではないのか。

サブキャラである若い訓練兵たちにしても、なんとも緊張感のカケラもないタルい連中で、どのイェーガーに乗って、どのように立ち回るかなど全く見えてこない。キャラクターが立っていないので、共感する気持ちがわからないし、誰が何をしているか分かりにくい。訓練施設だというが、とても厳しい鍛錬がなされているようにも見えない。危機感を持った識者が平和ボケの集団をみると腹が立って仕方がないというが、その気持ちがわかる気がする。

しかし、こうした点は個人の好みに合致しない瑣末なところだ。
最大の不満は、イェーガーの発進シークエンスが皆無だったところだ。
パイロットが乗り込む巨大ロボットもので発進シークエンスがないなんて、正気なのだろうか?

前作『パシフィック・リム』冒頭部のジプシー・デンジャー出撃シーンが、どれほどのロボット好きのオトコのコの心を鷲掴みにしたか、なぜそのシーンが重要なのかについてを、本作は全く失念している。

ドリフト接続できる信頼しあったパイロット2人が、油臭そうな通路を歩き、コックピットに移動し、傷や汚れのあるパイロットスーツを整備員に着用してもらう。巨大ロボットを動かすのは1人では決してできない。誰もが手慣れた手順で淡々とスムーズに作業が進行するのは、歴戦の経験がため。コントロール・ルームからは馴染みの管制官の声が入り、場の緊張がちょっと和らいだりする。いよいよ発進していくのかと思いきや、なんとパイロットルームはイェーガーの頭部であり、そこから垂直落下して、胴体と合体するのである。胴体にジョイントされた頭部は、そのまま一回転して胴体と強固に接続合体し、ジプシー・デンジャーの上半身がようやく現れる。と同時に、胸の原子炉に火が入る。人類が対怪獣用に建造したイェーガーの途方も無い質量感と、怪獣がどれほどの脅威であるかが、この発進シークエンスで理解できるようになっている。そして嵐の海に出ていき、更に水を利用したイェーガーの重量感を表現するのである。これらは古典的手法と言えばそうなのだろうが、この一連の映像表現で、この監督は「分かっている」「本物」「オタクだ」と確信できてしまう。ロボットものにおいてギミックやディテールは極めて重要なのである。


以上のことから、本作は私には合わない、というか燃えない作品であり、凡庸で残念な続編に過ぎなかった。
期待し過ぎていたのが空回りすることで失望に変わったとか、そんな小難しいことはない。求めていた内容が違った、ただそれだけである。

過去作と同じ路線でいっても、ニッチな人種の喝采を浴びることはできても、大きな収入には繋がらないから、本作への舵きりは間違いではないことは分かるのだが。続編を作る気マンマンで終わったが、果たしてどうなることやら。怪獣に『キング・オブ・ザ・モンスターズ』要素を入れて馬鹿っぽくそたり、怪獣を操って同士討ちさせたりするのだろうか。
 
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2018年03月10日

(映画感想)『ブラックパンサー』



まとめ
単体で判断すると駄作
『アベンジャーズ』シリーズのためのひと作品とみれば良作

来るべき『アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』のための布石となろう作品。本作の主人公であるティ・チャラが、(予想だが)キャップ&バッキーとトニー・スタークとの仲介役となると思われるからである。トニーは父の死を乗り越えられるないでいるが、ティ・チャラは乗り越えている。また、復讐に拘泥しない精神性をもつ。迫り来る脅威に立ち向かうためにヒーローたちが力を結集するためには、ティ・チャラのような実直なヒーローが必要なのだ。

謎の男らしいアフリカ民謡と謎の部族的儀式と雄大な大自然があれば、感情的なもつれもたちどころに解消し、トニーはヒーローたちと手を取り合うのである。勢いで解決するパターンといえばそうだが。

マーベルスタジオは、本当にヒーロー映画を撮ることが上手になった。トンデモナイ規模とレベルのノウハウの蓄積が、どのような作品をも必ずや一定水準以上の評価を獲得する売れ筋コンテンツに化けさせる。ウハウハであろう。

とはいえ本作は『アベンジャーズ』ありきのための作りになっているから、マーブルに無垢な人が本作品を鑑賞すれば低評価はとなることは避けられない。

頭ん中お花畑の作品に感じるだろうし、妹が天才科学者というご都合の良さに呆れるだろうし、「移民政策はダメダメ」「純血でないヤツの存在こそが、いつも国家を悪くする」という皮肉が込められた作品であると捉えることにもなるだろう。その割には明るい雰囲気なので、そのアンマッチさがいよいよ駄作認定を後押しするのである。事実、そう感じる人は『ホテル・ルワンダ』をみた方が有意義である。本作を単品で判断すると、確かにそんなものだからだ。


さて本作はヒーローものであるから悪役が登場する。ワカンダに眠る鉱石ヴィブラニウムのテクノロジーを利用して世界のパワーバランスを覆しワカンダを世界大国にしようと企てるキルモンガーがそれである。陰気になったボブ・ウィルソンみたいな外見だが、極めて高い戦闘能力と感情的にブレのない冷酷さをもつ強敵だ。

彼の出自を考えれば、その願望を抱くに至るや納得もできるのだが、『のび太の大魔境』のバウワンコ王国じゃあるまいし、うまくいきっこあるまい、と冷めた目で見てしまう。マーブルの世界観でみれば社長にヴィブラニウムを入手されて碌でもない結果が引き起こされるのが目に得ている。そういう意味では、本作のストーリーは「お花畑」ではなく、落としどころを得た納得のものなっている。ティ・チャラは良き王として、ワカンダを栄えある大国に導き、世界平和に貢献してくれるだろう。そう信じたくなる確かな暖かさが彼にあるからである。
 
なお、エンドロールが終わるまで席を立つべきではない。
恒例のおまけシーンがあるからである。
 
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2018年02月18日

(映画感想)『タッカーとデイル 史上最悪についてないヤツら(原題:Tucker and Dale VS Evil)』




映画好きの友人に推薦された一本。ジャンルはホラーコメディ。隠れた名作

我々人間はコミュニケーションが取れる。理解し合える。しかし、偏見と思い込みが過ぎるとそれすら不可能になる。なんにでも流される自分の意思がない人間もダメだが、偏見に凝り固まった人間もまた、ダメなのだ。掌を相手に見せて Hi! と挨拶するのは、マナーでもあるが、相手を攻撃する意思のないことを示すだけでばく相手からの無用な攻撃を誘発させないための自己防衛でもある。銃社会なら、なおさらだ。

腹の中に煮え切らない気持ちがあったとしても、我々はやはり、互いに歩み寄り理解し合う方が良いのである。たとえ机の下でナイフを突きつけあって「肘をつけて話し合う板一枚下は一触即発」であったとしても、互いに歩み寄る姿勢である方が良い。攻撃的な姿勢でいることは、場合と展開によっては、凄惨で取り返しのつかない破滅に向かって追い込まれる結果に繋がることがあるからである。

本作のプロットは、そうした訓戒……でもない、一種の倫理を下敷きに組まれているように思える。幼い頃からずっと一緒に生きてきた気の置けない親友同士の2人のおっさん(タッカーとデイル)と世間知らずのボンボン大学生たちでは、やはり局面での突破力が違うのである。そしてまた、ヒロインである真面目に学業に打ち込んでいる心理学専攻の女学生は、深慮と未知の相手に歩み寄る勇気を持っていた。そんな登場人物らは副題通り、おしなべてツイてない羽目に陥ることになっていく。

ジャンルとしてはホラーコメディなので、物語の展開に不自然な「ご都合」があってもコメディということで無理が通せる親設計仕様。

さあ、これをエンターテイメント映像すれば一本の映画ができるぞ!


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本作の舞台はウェストバージニア州アパラチア山脈(の麓の森の中)、世俗から隔離された大自然の中。

ウェストバージニア州というのは、要するにド田舎である。映画においてアメリカの田舎が舞台、といえばメイン州やアイオワ州だとかの印象が強いが、ウェストバージニア州もまた「田舎担当州」のひとつである。

……もっとも、アメリカは国道が広過ぎるので、どこの州にも僻地的なOutskirtsとしての田舎を抱えている気もするため、「○○州は田舎である」と断定するのはそれこそが偏見というか、ナンセンスな行為かもしれない。

なお、同州の炭鉱の田舎町「Coalwood」を舞台にしたヒューマンドラマ『遠い空の向こうに(原題:October Sky)』は、米国の田舎町特有の閉塞感と、どこまでも果てしない広大な秋の空が対比的に描かれた傑作である。カバー曲『カントリー・ロード』の原曲である『Take Me Home, Country Roads(故郷に帰りたい)』もまた、ウェストバージニア州を歌った曲として有名だ。

いずれにせよ、ウェストバージニア州の携帯の電波も届かぬ「圏外」な森の中にキャンプにやってきた大学生たちが、「念願の別荘を手に入れたぞ!修繕だ改修だ」と準備している休暇中のタッカーとデイルを不気味なヒルビリー(Hillbilly:田舎モン、かっぺ)だと偏見から思い込むところから、本作の「ツイてない」悲劇が始まるのである。


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アメリカは国土が広く、人によっては生涯にわたって自分の住む州から出ない人すらいるそうだ。それは「田舎」の白人に多いそうで、当然ながら保守的な人種であるし、学歴は低いし低所得である。共和党支持者で、銃規制には反対で、V8エンジンを積むピックアップトラックを愛していたりする。もしくは、そういう印象が強かったりする。こうした白人たちは「Redneck」と呼称されている。彼らはステレオタイプなところがありながらも、肉体労働を中心に勤労に勤しみ、趣味があり、州と郷土への愛着があり、日々を楽しく生きているのである。

彼らは田舎者であることは知っているので、都会の人間を前にすると裕福で別世界の人間であるという線引きを引いてしまう劣等感も有する。余所者に対して攻撃的な態度をとる人間も、勿論、いる。田舎は住人が少なく密接な人間関係がある監視社会でもある(息苦しいところがあるが、それがセーフティネットになっていたりもする)から、余所者の存在は一種の緊張の引き金になる。とはいえ、彼らの縄張りを荒らし始めるような余所者はまずいないで、問題が生じることはあまりないのである。

生じるとすれば、入り込んできた余所者が勘違いをしてなにかをしでかした場合であることが多いものだ。「厄災は常に余所者が持ち込んでくるもの」なのである。

その余所者とは、都会からきた人間と相場が決まっている。田舎の人間は人をさらって森の中の小屋に連れ込み猟奇殺人を楽しんでいるとか、人気のない山奥には殺人鬼が住んでいて殺されるとか、 都会にいた犯罪者が身を隠している仮初めの姿だとかのステレオタイプな偏見を持って。


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思えば『ブレアウィッチ・プロジェクト』も田舎の森の中が舞台であった。人が住む町があり、そこからちょっと足を運べば人間を拒むように存在する大自然が横たわっている環境に住み続けていれば、そこには「人を飲み込んでしまう危険が潜んでいる」畏怖の念が育つと考えられるし、米国人の中に普遍的に存在するオカルトじみた怖れの念の出自となっているのだろう。

大自然を控えた人の姿のない田舎であればこそ、風貌の怪しい人物は、やはり即座に警戒の対象となりうる。大自然も怖いが、狂った人間、ことに潜在的なシリアルキラーはもっと怖いのである。死んだと思っていた犯人の死体は確認されず、実は生きのびていたんだ、とかね。
 
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2018年02月13日

(映画感想)『GANTZ:O』


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奥浩哉の漫画『GANTZ』の大阪編をストーリーのメインに据えた3DCG映画。漫画原作の映画化は、邦画は、下手に実写化などしないで素直にCGアニメーションにした方が宜しかろうと思わされる高いクオリティに仕上がっている。個人的には期待値には届かないものだったが、ファンの多くは満足する内容だろう。

原作における大阪編は、おそらく最も面白い時期であったのではないかと思われる。漫画『GANTZ』魅力をこれといって説明すること難しい。多方面に貪欲で飽食で刺激的だからである。簡易に表現するなら、現代舞台にSF設定を盛り込んだエログロアクション漫画といえる。普通、そうした「お手軽な」ものはファストフードと同様、子供だましな内容と展開を否定することができず、10代読者層にはウケてもそれ以上の年齢層には底を見透かされてウケないものである。『テラフォーマーズ』がその好例として挙げられよう。『GANTZ』もまた、その流れがあることを否定できない。

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しかし、『GANTZ』には、とりも直さず、とてつもなく魅力的な男性キャラクターたちが登場する。それぞれを主役に据えて世界観を変えれば面白い漫画が一本、作れちゃうほど個性的で魅力的なキャラクターが、あまつさえ使い捨てのように贅沢にシレッと動き回っている。『GANTZ』は、主人公やヒロインにさしたる魅力は覚えないのだが、サブキャラクターたちがトンデモ面白くて引き込まれるのである。私は昔から主人公よりもサブキャラが好きなタイプだったので、堪らないものがある。

作者である奥浩哉は「DQNを描かせたら右に出る者がいない」人類の至宝レベルのハイセンスの持ち主であるから、その慧眼があれば、漫画のキャラクターとして極めて魅力的な人物像を与えることは造作もないことなのかもしれない。大阪編の主要登場人物らには、大阪への多少の偏見と悪意がある気がしたが……

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そうした個人的背景から本作を評価すると、残念ながら高い評価を出すことができない。ストーリーが悪いわけではなく、登場して欲しいキャラクターがオールスターレベルで欠落しているからである。風とタケシ、桜井とサカタの超能力師弟コンビ、ホストザムライ、ド変態の桑原さんが登場しないのだ。この時点で「それはアカンわ」と思う方は少なからずおられるはずである。このクオリティの3DCGアニメで彼らのアクションを堪能できたのなら、と、ひとえに残念な気持ちになるのである。

本作の主人公・加藤は原作通り素晴らしい漢であり、文句のつけようがないが、加藤1人で物語を引っ張るには大阪編はあまりに大きすぎる。ヒロインは2人登場するが、初代『デッドオアアライブ』のような縦方向だけの不自然な乳揺れを強調されても仕方がない。エロを強調する上での遊び心かもしれないが、それが『GANTZ』の重要な魅力のひとつとは思えない。本作にヒロインはそもそも不要だったとは言えないが、扱いに贔屓がすぎたのが個人的には不満であった。先述したが、『GANTZ』において、主人公とヒロインは添え物みたいなものだからである。

posted by ぎゅんた at 13:48| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月16日

(映画感想)『デッドクリフ』



まごうことのなきパッケ詐欺


立ち入り禁止の山岳地帯でロッククライミングを始めた若者たちが、転落以上の恐怖に見舞われることになるサバイバル・ホラーである。大自然の中での遭難モノですから、やっぱりテンプレート展開になってしまうものです。B級。これといい勝負な出来。フランス映画。


まとめ
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ストーリーの流れを大まかに説明すると、

1.登場人物らが人里離れた山岳にロッククライミングに出かける(田舎のあんちゃん&boob!)
2.ロッククライミング開始
3.退路を絶たれる
4.うぎゃートラバサミじゃあ!
5.パニック&サバイバル
6.結局は助からなかったよ…

こんな流れである。

ここに「知能指数の低そうな若者」「山を舐めすぎ」「醜い小競り」エッセンスがブチ込まれる。要するに登場人物らが凄惨に死んでも(心情的に)オッケーな作りに意図的になされているのである。自業自得感というか、バカは死んでも治らない、というのはシュール&シニカルなフランス人の強い本音なのか。そう考えると、いやしかし、描写がまだ中途半端だな……という感じで、突き抜けていない。「このグダグダさこそ現実的」といえばそうだし、その意味でいえば上手くできている。

前半は転落の恐怖がヒシヒシと伝わってくるクライミングシーンの連続であり、高所恐怖症の方は視聴できない迫力に満ちている。私は高所恐怖症なのでみていて辛かった。どうやって撮影したのか皆目わわからないが、迫力のある映像に仕上がっている。確かにホラーである。

しかし中盤のトラバサミ以降、謎の時間経過と天候変化でフィルム全体に陰りが降り始めるとともに、本作は転がり落ちていく。転落以上の恐怖とは殺人鬼のことだった! 人間にとってもっとも怖いのは大自然よりもナチュラル殺人鬼なのである!

…って、流れになっても、いまさら新鮮味もクソもないと感じる方が多いだろう。

文明より隔離された誰も来そうにない大自然の山岳に殺人鬼がいたら、それは確かに最悪の恐怖に違いないし、ロッククライマーなら誰しもが想像したことのある鉄板ネタなのであろうが、描写として突き抜けていないので新鮮味に欠けているように見えてしまう。後半のパンチが弱いのである。本作の残念なところだ。


テンプレ展開を反省と打破するために、主要登場人物らを完全無欠な仲良し男女パーティにして、迫り来る危機を友情とチームワークで見事に跳ね除け無事生還する「開き直った」サバイバルホラー映画が観てみたい気持ちを新たにする。それだとホラーにならんでしょというツッコミはごもっともだが、私は登場人物らが怒鳴りあったり口論するシーンはテンションが下がる一方で好きじゃないからである。そうしないと人間ドラマや物語の起伏がつかないことも分かるのであるが、やっぱり。
 
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2018年01月07日

(映画感想)『きみはいい子』




中学生の時分であったが「タクシーから始まる幸福の連鎖」の話を知った。タクシーから降車する際に、敢えて100円の釣りを運転手に謝意と共に手渡すのである。100円であるども運転手は貰って嬉しく思うであろう。その気持ちが、次の乗客に気持ちの良い仕事として引き継がれ、乗客もまた、気持ちが良くなるはずだ。100円の釣りという、ちっぽけな始まりが、世の中を明るく良くする風に働いていくー、そういう話であった。どの文献にあったかは記憶にないが、話だけは記憶に残っている。

この話に感銘を受けた私は、金沢に出てタクシーを利用した場面で実行に移してみた。運転手は笑顔みせてくれたが、しかし、頑として受け取らなかった。素晴らしいお心遣いだけれども、君が大人になってから存分にやってくれ、そんなことを言われた。気持ちは分かるが、身の丈にあったことをせよと教えてくれたのである。私はこの運転手に気高さを感じた。目下、タクシーを利用する度に思い出すのである。


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本作は子どもの虐待を主軸に置いたヒューマニズム群像劇である。メインの登場人物は3人で、それぞれがパラレルに物語が進行し、一応の終着駅に向かっていく。子どもとはなにか、大人とはなにか、現代社会に生きる我々に突きつけられる見えない現実はどのようなものか。単純明快なハッピーエンド約束された結末ではないく、答えは、観たものに委ねられる。上手に撮られた邦画であり、視聴後にモヤモヤ残す味なつくり。なぜ我々は、こうも張り詰め中で生きているのだろうかと考えさせられる。


コピペでストーリー
岡野(高良健吾)は、桜ヶ丘小学校4年2組を受けもつ新米教師。まじめだが優柔不断で、問題に真っ正面から向き合えない性格ゆえか、児童たちはなかなか岡野の言うことをきいてくれず、恋人との仲もあいまいだ。

雅美(尾野真千子)は、夫が海外に単身赴任中のため3歳の娘・あやねとふたり暮らし。ママ友らに見せる笑顔の陰で、雅美は自宅でたびたびあやねに手をあげ、自身も幼い頃親に暴力を振るわれていた過去をもっている。

あきこ(喜多道枝)は、小学校へと続く坂道の家にひとりで暮らす老人。買い物に行ったスーパーでお金を払わずに店を出たことを店員の櫻井(富田靖子)にとがめられ、認知症が始まったのかと不安な日々をすごしている。

とあるひとつの町で、それぞれに暮らす彼らはさまざまな局面で交差しながら、思いがけない「出会い」と「気づき」によって、新たな一歩を踏み出すことになる―。


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誰もが見るべき傑作ヒューマンドラマ。

ストーリーには色々と綻びもあるのだけれども、いつのまにか気にならなくなったり解消されていたりする。事件や問題点、トピックが表在化したとしても、時間の経過と共に霧消していたり、別のアプローチの介入で改善したり、自己解決機転が働いていたりする。つまりは現実世界の事象と同じである。この作品に流れる、ストーリーを背負った現実的な空気感は実に見事で、撮り手である監督のバランス感覚の鋭さに脱帽させられる。人間のいやらしい面をも巧みに描いている。

それは俳優の演技にも熱演の形で反映されている。虐待シーンやそれを匂わす描写や表現があまりに生々しく、観る人によっては、心が辛くなったり、不快感に耐えられなくなるかもしれない。心が痛むし、腹が立つし、同情させられるし、素面にハッとさせられたりする。よくぞここまでのものを撮ったものだ。吸い込まれるように無音になる場面や意図しない雑音のようなBGM、廊下を長く無機質に映し出すカットなど、計算された演出面も味がある。


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凍りついた瞳』という有名な漫画がある。大学の丸善で、社会派を気取っていた私は、講義中に時間つぶしに読もうと(お父さんお母さんゴメンナサイ)思って購入したのだった。果たして、その内容に衝撃を受けた私は落ち込み、「読み終わったら見せてくれよ」とはしゃいでいた畠山くん(仮名)は文字通り凍りつき、「私にも読ませて」と又貸りしていった戸田さん(仮名)は講義中に教室を飛び出しいった。我々は本当に幸運だったのだ。私立の大学に通わせて貰える裕福な家庭に育ち、家庭内外で「子どもの虐待」と無縁で育ったからだ。世間知らずのお坊ちゃんお嬢ちゃんといえば、それだけの学生だったのだ。しかしそのことを咎められようか。現実に存在する、あまりにも残酷な世界に嘔吐した戸田さんを誰が慰められよう。

ここで学んだことは、親より受けた虐待は「子が親の背を見て育つように」連鎖する側面がある、ということだ。この不幸な心理は、虐待を受けて育った人間に独自に形成される歪な愛情表現にあろう。欠落した部分を補償するために、無意識的に親が自分にしたことと同じことをしてしまうのである。いわゆる愛情の欠如である。無論、やっている本人も間違っていることは分かっているのだが、止めることができない。誰にもいえない。理解してもらえない。欠落した部分が埋まらない限り、同じことを繰り返す袋小路に陥ってしまう。

しかし、優しくすることはできる。優しくしたことが全てを解決すとはいえないけれど、優しさが優しさを呼んでくることはあるかもしれない。どう接していいのか分からないなら、言葉にして伝えることができないなら、相手を抱きしめてみるとよい。それだけでも、相手を少しでも理解しようとする心の表れを伝えることができる。一人でないことを伝えることができる。安心することができる。


人間を救えるのは人間だけ
映画のラストは尻切れで、不穏な空気を残したまま終幕となる。その後の具体的な話は視聴者の想像に委ねられている。ここで描かれているのは、「あの時は」一歩も前に踏み出せず踵を返すしかなかった新米教諭が、臆せずドアをノックできる気概を身につけていることだけだ。とんでもないバッドエンドかもしれないし、ハッピーエンドが待っているのかももしれない。しかし私が予想するのは、義理の父親と膝を交えた不快な話し合いが始まることである。終わりではなく、子どものための始まりである。

面倒を起こさず、少なくとも今より自体を悪くないことを考えれば、生徒の家庭に介入などしなければ良い。しかしそれは、問題を認識していながら見て見ぬふりをすることでもある。声にならない子どものヘルプを拾った時、なんとかしなくてはならないのは大人の務めなのである。たとえそれが度の過ぎた他人のお節介だ、余計な面倒ごとだと罵られても、やらなくてはならない。

この辺の「子どもを虐待から救うため」のメッセージ性は、敢えてフィルムに入れなかったようだが、当然のことながら込められている。考えさせられるように意図的に撮られている。こうすればいい、ああすればいい、制度を変えればいい……人それぞれに色々な意見があって然るべきであり、また、快刀乱麻を断つ解決策もない。子どもの虐待という悲劇は、今も変わらず存在し続けている社会の病根のひとつなのである。
 
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2018年01月02日

(映画感想)『ナポレオン・ダイナマイト』




アイダホ州のど田舎が舞台。全編にわたって抑揚のないシュールな、しかし温かさだけは決して失わないで突っ走る脱力系スクール・コメディ。傑作


コピペあらすじ
アイダホの高校生ナポレオン・ダイナマイト。ルックスもダサければ頭も良くない彼は、当然のように学校でも友達もなくイジメにあってばかりの毎日。そんな彼にも、メキシコ人の転校生ペドロという友だちが出来た。女の子にモテたいペドロは無謀にも生徒会長に立候補、ナポレオンも彼の応援に精を出すが…


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アメリカの学校といえば、なにはさておき、スクール・カーストである。スクール・カースト抜きでは語れないのである。この学校社会独自の社会制はアメリカ以外にも普遍的に存在するが、アメリカが文化的に最も際立っていることは確かであり、その延長線上に大国アメリカが存在している。

かくいうわけで、本作にもその特色は認められるのであるが、スクール・カーストをテーマにしたものではないから、細かな説明や発展があるわけではない。主人公ナポレオンや友人のペドロ、デビーらはカーストの底部のナードであるが、そうした本質はストーリーに先立たれた添え物にすぎない。

学校で幅を利かせているのはイケてる運動部や美女らであって、それ以外はそうではない、ぐらいに単純明快なっている。実際は存在したであろう陰惨な面はあえて排除したようで、それによって作品の雰囲気がシリアスになりきらないよう調整したようだ。ナポレオンはジョックにやられっぱなしではない。てんで的はずれではあるが、反論も反撃もするし、よくよくみればジョックもクイーンもあまりイケてない(所詮は小さな田舎でしか幅を利かせられないレベル)し、叔父のリコに見られるように、大切なのは過去に生きるのではなく未来に向かってまず今の自分が動くことである、という隠れた主張がみえてくる。こうした特色が本作の根底に太く流れていることが、本作にみられる独自の温かさとユーモアに起結したのだろう。話の展開が素直で捻くれていないのである。


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そんなかんだで、シュールな静止場面やハイテンション婆ちゃんや謎の屠殺シーンを含めた「アメリカの農場」体験が織り込まれ、押しも押されぬど田舎コメディムービーに仕上がっている。このような牧歌的で郷愁感さえあるコメディ作品は珍しいだろう。形は様々であれど、誰しもこうした経験を経て大人になっていったのだという無言の説得力まである。

爆発や暴力や派手なCGもなにもなく、中腰遁走スタイルを貫く本作は肩の力を抜いて鑑賞できる傑出の脱力系スクールコメディである。映画が好きな人なら、押さえておくべき一本であることは間違いない。オススメ
 
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2017年12月23日

(映画感想)『ワイルド・カード』


まとめ
隠れた名作


ステイサム主演のアクション映画である。ジャンルはクライムスリラーとのことだが、あんまりピンとこない。ネバダ州ラスベガスを舞台に用心棒業を営むニック・ワイルドのドラマが描かれる。ステイサムがド派手に暴れまくるアクションではなく、ラスベガスの裏社会を意識したクライムドラマといったところで、いうなれば地味な映画である。それでありながら、いぶし銀な魅力ある作品に仕上がっている。

ステイサムの鋭いアクションとシンプルだが繋がりのあるシナリオが相乗されている。低予算映画と思われるが、安っぽくない見事な仕上がり。観客の大多数が馴染みのない、夜のラスベガスとカジノの雰囲気をスタイリッシュに映しているシーンが中盤に挟まれているからだろう。

と、べた褒めをしているようだが、気になる点も存在する。
主人公ニックがギャンブル依存症であることが分かりにくいことである。この設定はストーリー上司かなり重要な要素なのだが、中盤以降でいきなり手元に放り込まれてくるダイナマイト束のような扱いなのだ。鑑賞後には、監督が勿体ぶらせた描写に過ぎなかったとわかるが、しかし「ギャンブル依存症」という割に「ずいぶん軽いな……」と評価せざるを得ないところが釈然としないのである。



現代人が覚えておくべき用語「サイマー」
サイマーとは、出自は2チャンネルの生活版あたりと思われるが、いわゆるネット用語の1つである。債務に「ー者」を意味する"-er"を掛け合わせたものであり、その名の通り債務者であり、有り体に言えば借金気質な人を意味する。日常的に友人から金銭の貸し借りをしたりローンを組んだりサラ金を利用している人、と捉えて差し支えない。

これだけだと「そんな人いるよね」ですむが、サイマーがサイマーと呼ばれる所以は、その気質は極めて厄介で絶対に関わらない方がいい人種であるからに他ならない。関われば不愉快な思いをするし、トラブルに巻き込まれるのが常だからである。そして、たいていはギャンブル依存症に足を突っ込んでいる。

本作のニックがギャンブル依存症であると知ってもピンとこないのは、ニックに「サイマー」の特徴が見られないからである。たとえ人種が違ってもサイマーの気質は同じである(海外の映画で、うだつの上がらない借金気質のダメ人間がしばしば登場するが、あれがサイマーである)。サイマーはサイマーなのである。脚本家がギャンブル依存症を誤解しているとしか思えない。依存症は立派な病気であり、こんなに甘くも軽くもない。



とまあ、気になるのはそれぐらいのものである。
ニックは銃を意図的に全く使わないが、これは「格闘シーン推しのステイサム作品だから」も理由としてあるだろうが、長い用心棒家業の中で独自に築き上げられたコンバットスタイルが確立しているからである。その場で入手するアイテムを駆使して相手を倒すのは機転の利いた洒落た喧嘩劇のようで面白い。達人の域にあるわけで、下手に銃を使わない方が強いのである。

シナリオはハッピーエンドまでのシンプル一直線なのだが、重要な役割を担うのがサイラスである。ニックにとっては用心棒の依頼人に過ぎない相手であったが、次第に心を通わせ、歳を超えた友情を築き上げるのである。

両者とも、そこそこの成功を可能にした能力を持ちながら現状に燻り、将来に不安を抱えている。そして、臆病なのが良い。サイラスは、ニックのような勇敢さが欲しかったしそれを克服する術を欲して接触したのだった。そして、ニックとラスベガスで過ごすことで、誰しも臆病であることを学び、臆病である自分自身を受け入れて生きていくことは悪いことでも何でもないことを学んだのである。それこそが「自分らしさ」だからであり、新たに生きていける確信を得たのである。サイラスはラスベガスから去る日に、そのことをニックに伝えた。そして、ニックにも「自分らしさ」を認めるべきだと進言する。ニックも、そのことを認める。自分は臆病なギャンブル依存症なのだと。

文章にすると地味なシーンにすぎないが、早朝のダイナーという、社会の末端から一日の始まりを感じさせる雰囲気もあって実に味のある名シーンに仕上がっている。しかし、ニックの表情は硬い。もうすぐマフィアに殺されるだろうと覚悟しているからである。

そこに怨恨呪詛的にマフィア一行が現れる。多勢に無勢、バターナイフとスプーンを握りしめたまま固まるニックであったが、察したサイラスが機転をきかせて咄嗟に道化師のふりをしてマフィア一行の気が逸れた一瞬の隙にニックは裏口から遁走する。追いかけてきたマフィアを屋根の上からやり過ごそうとするニックであるが、ボスはニックが絶対に逃げられない体制を敷いての捕獲命令を耳にする。マフィアを敵に回して生きて逃げられるだろうか?観念したニックは耳を閉じ、走馬燈のごとく自分がヨットに乗る姿を夢想してしまうのだが、手始めにサイラスを殺せと命ずるボスの声を聞き屋根から飛び降り、鬼神のごとき立ち回りで一行をギッタギタのメッタメタに叩きのめす。

ここの流れが熱すぎて本当に素晴らしい。自分たちは臆病であることを受け入れたふたりであったが、それをして、勇気を出して戦うことを瞬時に選択したからである。ニックは、そのまま屋根の上に身を隠していれば逃げおおせられたかもしれなかったが、サイラスが殺されること耳にして、それを阻止するために屋根から飛び降りるのだ。ここで彼が手にしている武器はバターナイフとスプーンである


ニックとサイラスは、もう二度と会うことはないと思うが、ふたりが手にしたのは生きていく希望と喜び、永遠に続く友情である。短くカラッとした別れのシーンも、心根が通じ合った男同士の友情を感じさせてくれて素晴らしい。

ステイサム作品は見終わった後に腕立て腹筋をしたくなる衝動に駆られることはあっても、大きな余韻はないのが常であった。しかしこのワイルドカードは別である。有名でも高い評価を得た作品でないところが不思議だが、文句なしに名作だと思う。ステイサムファンでなくとも観ておくべきだろう。
 
posted by ぎゅんた at 19:00| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

(映画感想)『ドライブ・ハード』輝く仕事をしているパパがナンバーワン!




まとめ
愛すべきゆる〜いB級映画

全方位中途半端型娯楽アクション映画。間違っても迫力あるカーアクションモノを期待してはいけません。表紙詐欺だからであります。凄惨な死亡シーンが一部にあったりしますが、総合的にみればコメディ寄りのバディムービーにすぎません。しかし微妙にテンポが悪い。

シナリオは穴があるというか、整合性について真面目に考えられていません。「それっぽくなる素材は寄せ集めといたけど、制作費もないのに、そんな本格的に仕上がるわけねーじゃん」と開き直った感が満載。良識と根性で低予算を克服している姿勢が透けて見えます。

なんだかんだ独特というか、駄作だと言い切れない珍しいタイプの映画。もちろんB級。約束されたハッピーエンドの安心設計。もうちょっと頑張れ!と応援したくなるカナダ映画です。舞台はオーストラリア。2014年公開。



カーアクションモノを期待するべからず
古いとはいえ大排気量V8OHV搭載のマスタングに乗っているにも関わらず法定速度ドライブに勤めます。コーナーを曲がるときはなんとなくドリフト気味にリアを滑らせ、アクセントのようにシフトレバーをローギアにガチャッと入れたりガスペダルを踏みつけるカットが入ります。終始オートマ。役者がマニュアルの運転ができなかったからに違いありません。意外に思うかもしれませんがアメ公はマニュアル運転ができる人が少ないのです。モータージャーナリストのくせにマニュアル車に乗れない人もいます。そんなわけで米国には「最大のカーセキュリティはマニュアル車を選ぶことである」という、実しやかな格言があるぐらいです。

また、カーアクションに付き物のクラッシュシーンも全然ありません。登場するクルマも、ビンテージなマスタングを除けば安っぽいクルマしかでません。無駄を省く制作スタイルと思いきや、真相は制作費をケチっただけです。いきおい、クラッシュシーンが全く発生せず、外連味あるクルマも登場しない地味な内容になります。畢竟、黒色のビンテージ・マスタングの格好よさばかりが際立つわけでありまして、その清々さにかえって新鮮な印象を受けてしまうほどです。

そんなわけで、ワイルドスピード・シリーズのようなド派手なクラッシュや爆発、スピード感などこれっぽっちも存在しません。これでシナリオが良ければ「ソフトウェアの勝利だ!やった!爆死は避けられた!」と諸手を挙げての大勝利ですが、世の中そんなに甘くない。意識して意味ありげな設定を用意できたはいいものの、うまく料理することができていません。さしたる盛り上がりに貢献することなく、むしろテンポを悪くしてしまう始末であります。ワルモンの手先になってる警察のおっさんと連邦警察側のエージェント2人との結末とか相当に投げっぱなしで笑えます。実のところ、あまり笑えないシリアスで悲劇的なシーンのなのですが、シュールさが先に立って譲らないからです。そもそもケラーのキャラクタが矜持あるサイコ脳天プロ犯罪者のそれで、犯罪に巻き込んだ主人公への語りかけや仕草が地味に笑えるコメディ路線がストーリーにドンと横たわっています。主人公との掛け合いを楽しむロードムービーっぽさがあるのです。とはいえ素人漫才っぽいところを逸脱できていないので、コメディとして突き抜けているレベルでないのが残念なところ。中盤に登場する結婚式場兼ブドウ園の老夫婦の方が笑いのレベルでは突き抜けてます。怖いのは犯罪者よりもイかれたばあちゃんです。躊躇なくリボルバーを発砲して殺しにくるからです。次に怖いのが、夫を尊敬の対象として見なくなる妻の残酷さでしょう。安いサラリーしか得ないパパは、それだけで愛さない理由に直結するからです。

ケリーは頑迷でとっつきにくい男ですが、強い哲学をもっていることが、彼の口から出る言葉の端々に込められています。ポリシーから含蓄ある説法まで幅広い。殺しはやらない、犯罪者は信用しない、妻は夫の尊厳を蔑ろにするべからず、欲深いから死ぬ、人は欲望を抑え互いに思いやることが大切、泥棒でも約束は守る。
…なかなかに良いキャラクターをしておりまして、本作における大きな魅力に貢献しています。

思えばドライブとは、助手席の人間と車内という閉鎖空間でアレコレと会話する行為でもありますから、こんな濃いキャラクターが助手席にいれば、なるほどハードなドライブに違いますありません。いうまでもなく、このドライブには、「人生の歩み」としての意味も込められていることが分かります。バカ映画と思いきや、含みがあるのです。



緩いB級映画が好きな方は是非
どうも本作は駄作と名高い、困った一本のようです。確かにそう断じたくなる不甲斐ない出来の部分が目立っているにせよ、味わい深い妙に魅力的な部分があったりするところが印象的です。

正直者が馬鹿を見る社会って、やっぱり間違ってるよね、と考えつつも日々の生活に忙殺されている貴方の休息日に気楽に見るべき一本だと思います。

posted by ぎゅんた at 22:33| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月23日

(映画感想)『孤高のメス』



大鐘稔彦氏の小説『孤高のメス』の実写映画。小説よりも、これの漫画原作となる『メスよ輝け!』の方が有名かもしれない。その漫画にしても、1990年代に連載されていたものであるから、古い内容だ。それを実写化しようというのであるから、今更感を否定できないところがあろう。しかしそれは礼を失した杞憂である。上手に練り上げられた脚本によって見事な実写映画に仕上がっている。原作ファンの殆どが納得するだろう。


メス、とあるように本作は外科医を主人公にした医療ものである。
民間病院で患者の命を救うことを第一に考えている凄腕の外科医・当麻鉄彦と、大学病院医局との確執や軋轢をドラマに盛り込んでいる。時代背景は1989年で、命を救うための肝臓移植についてメインテーマとなる

医療漫画といえば『ブラックジャック』が有名だが、内容的に荒唐無稽である。一方この『メスよ輝け!』は脂の乗った現役医師の書いたシナリオであり、当麻鉄彦の医師としての真摯な姿勢と権威主義的な大学病院の姿勢が対比的であり、またリアルに描かれている。『白い巨塔』をより漫画的に親しみやすくした感じか。とにかく主人公である当麻鉄彦が魅力的な外科医で惚れ惚れする。こんな医者がいてくれれば……と誰もが思うだろう。対比されるように、腕も人格も未熟でありながら態度だけは一人前以上な尊大な医者がわんさと登場するので余計にその念を強くする。現実的には医者も人間であるから、不器用で下手な者もいるし、感情的で欲深い生き物であることを殊更に批判しきれないものである。当麻鉄彦は極めて例外的なのであり、ひとつの理想像に違いない。しかし、患者の命を救うことだけを考え、腕が立ち、恬淡とした人格者であるこの外科医は本当に格好良く、実在してくれることを願うばかりの気持ちにさせられる。自己犠牲を厭わず患者に尽くし、素人と専門家の距離を把握した上でコミュニケーションをとり、最善の治療を行う。そこには深い信頼関係がある。だからこそ、命と真正面から向かい合う熱いドラマが生まれる。

本作『孤高のメス』も『メスよ輝け!』も、主人公は当麻鉄彦であるが、若干、キャラクターお味付けが異なる。どちらも石部金吉タイプなのであるが、映画版の方は朴訥さが強調された感じである。漫画版は僅かに感情的で純朴さが強調される。いずれにせよ「当麻先生が実在するなら、こうであろう」という想像にピタリ合致しているのは見事で、これは采配と役者の演技力の賜物であろう。

当麻鉄彦はひとつの理想的な医師の姿であるなら、その反対もまた存在する。漫画原作『メスよ輝け!』や、同原作の『青ひげは行く』『ザ・レジデント』に山のように出てくる。かなり生々しいエグさで、「実際にこんな医者が少なくないのかな…」と暗澹たる気持ちにさせられること請け合いだ。大鐘稔彦先生が、こういうダメ医師に煮え湯を飲まされる思いを散々にされてきたのか、世の医師たちへの反面教師としての警句なのか。医学がどれほど進歩しようと、いつまでたっても「良い医者の選び方」特集が消えることはない。


オススメ映画。邦画好きなら迷うことはない。
実写映画に食指は動かないが医療もの漫画は好き、という方は漫画の方を。『青ひげは行く』『メスよ輝け!』『ザ・レジデント』の順でオススメだ。

posted by ぎゅんた at 22:41| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする