2016年10月28日

映画感想「秒速5センチメートル」

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 その昔の若者雑誌。ウジウジと悩む少年に回答者が「風俗へ行け」とアドバイスする名物的読者相談コーナーがあったことを思い出す。回答者は童貞であることに悩んでいるならとっとと捨ててこいと断言していたのである。ブレがなかった。それを読んでいた高校生の私は、「一理ある回答だが、好きでもない相手に童貞を捧げるのはちょっとどうなのかしら。乱暴な」と感じたことも思い出す。

 今にして思えば、私が間違っている。童貞であることに懊悩しているのなら、それは喫緊に解決すべき課題なのである。そしてその解決策は、童貞を捨てることに他ならないし、解決することで成長できるからだ。一方、「童貞は捨てるものではなく捧げたい」と淡い願いを抱く傾向にあるのも童貞である。しかし、そんな童貞の童貞に対する神聖性など鼻クソみたいな価値観なのである。おセンチなロマンチズムでしかない。つまり、なんの価値もない。そのことを精緻し尽くしているからこその回答なのだ。ウジウジ悩むぐらいならとっとと捨ててこい(それで、分かる)!。けだし箴言である。


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 本作は万人受けする作品ではない。特定の人にはクリティカルに受け止められるだろう。それ以外の人には、背景雰囲気良質アニメないしは挿入歌の大掛かりなプロモーションビデオになろう。

 本作が心に響く人は、恋愛というのは純愛であって崇高なものだと捉えている、言ってみればピュアでインテリジェンスの高い人ではないかと思う。とくに心に響くものがなかった人は、大人になって汚れたというよりは、現実主義なのである。冷めているわけではないし、何事に対しても熱意ないわけではない。虚妄には距離を置くスタンスを取っているだけだ。

 私は後者である。ただし、本作を視聴して心に響くものが全くないわけではない。主人公の男の気持ちは、自分自身の恋愛の遍歴と重ねあわせれば理解できる。切ない気持ちも理解できる。しかし、この主人公は女々しい野郎だと思う。いつまで過去に生きているのか、過去に生き続けることは否定しないが、病的に過ぎる。そんなことだから女とうまくいかずに破局を迎える(しかも間違いなく主人公が悪い)のである。彼の明里に対する美しい想いは本物であっても過去に生きすぎていることは事実だ。そもそも同性の友達すらいないっぽいし、どれだけヤバイのか自覚もできていないのか。さっさと現実と向き合って決別をつければ楽になれように。


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 …しかし、男というには、こうしたあまりに純粋一途な想いを全否定することは野暮で無粋だと解釈する生き物だ。男らしくないといえばそれまでのことであっても、比肩できない種の崇高な想いがあるのならそれは認められうべきものに昇華する。それは自己そのものなのであり、否定すれば自己を失う。ブレて霧消してしまう。男には、客観的にみて愚行であれど決して譲れない聖域を包括して生きる性格があることだけは、だれしもが無批判に認めなくてはならない。だから、主人公の明里に対する懸想は美しくあり、成就することがなかったことは切なくある。完全に同意することも感情移入することもないにしても、そうだよね、と共感することはできる。

 ときには、無為なことと自覚の上で過去の思い出に耽溺することがあるのが男であり、弱いところであり、可愛いところなのある。思い出は現実と繋がっていないからこそ思い出なのである。明里は幸せな結婚生活を送るだろう。主人公は「風俗に行け」ば大丈夫だ。人生はまだ長いのだ。
 
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2016年10月22日

(映画感想)「野火」 燎原


まとめ
観ておくべき渾身の一本。



大岡昇平の短編小説「野火」を知ったのは高校生の時分だが、それが教科書に掲載されていたためか模試試験(現代文-小説)で知ったのか、思い出すことができない。確かなのは、知ったその日の帰りに書店にて購入したことである。続きが気になったのだ。

読後、大きな衝撃を受けたかどうかで言えば、それはなかった。「ふうん、こんなものか」といったところ。正確な読解ができていなかったであろうことも一因だが、性欲が服を着て思慮浅薄に生きていた若造の手に余る作品でもない。人生経験が浅いと想像力が貧困だ。戦場と饑餓の極限に晒された人間であれば、能動的でないこそすれ、人肉に手を出すのはごく自然な流れなのではと感じたが、それだけであった。ただ、フィリピンの不味そうな芋が、極めて強烈な印象とともに残っただけだ。


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私は頬を打たれた。―
本作では、太平洋戦争におけるフィリピンのレイテ島を舞台にした日本兵を描く。肺病(結核)もちで役立たずの田村一等兵を体良く厄介払いするために、芋を手渡して病院へ向かわせる上官の姿から映画は始まる。

舞台がレイテ島だとか戦況がどうとか、ストーリーや背景は全く説明されないまま唐突に始まるのである。自主制作に等しい低予算映画であるために、背景説明を担うプロローグが用意できなかったのではない。小説もそうだが、「野火」は、本当にあっさりと視聴者を舞台に放り込むところから始まる。意図的である。戦況がどうとか舞台がどうとかは、いまそこに生きる日本兵にとって重要でない。少なくとも分かるのは、軍の糧秣が、この島に自生するカモテ芋であることと軍隊らしい命令もなにもないことから、もはやこの島の日本兵たちの組織と拠り所である日本軍という組織が壊滅に瀕しており、形骸化された組織系統がかろうじて残っているにすぎない状況であることだ。

主人公田村が活躍する話でもないし、敵兵との戦闘が描かれるわけでもない。戦争映画ときいて世に想像されるような、押しも押されぬ大火力を見せ場とするバトルアクション要素は全くない。戦争はどう描いても娯楽たりえない。理不尽で、不快で、人間の尊厳を踏みにじる。


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この映画を鑑賞して抱く想いは様々であろう。明確な背景説明もストーリー描写もなく、フィリピンの大自然と無残な日本兵の姿が淡々と描かれるばかりだからである。コントラスト鮮やかな自然の中で、血の色さえもくすんだ亡霊のように映される日本兵は叙情的である。まるで存在してはいけない夾雑物のようだ。米軍による機銃掃射も、敵兵の姿がまるで見えないことからまるで天災のようである。ここに飢えと病気と合わさって、日本兵は次々と命を落としていく。大自然のなかに朽ち果てている悽愴な様に呆然としてくる。

微妙に台詞が聞き取りにくいが、これは邦画だからというわけではなく、衰弱して滑舌が悪くなっている表現ともとれるし、栄養失調で田村の集中力が弱っているのではないかと考えられる。そもそも聞き漏らすことで映画の理解に支障が出るほど重要な台詞はないのである。


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殺した犬は食べなかったの?とか、いつの間にか咳をしなくなった田村さんとか、気になる点もあるが、この映画で重要なのは鑑賞後になにを感じ入るかである。私の塵みたいな感想はどうでもよい。少しでも興味を持たれた方は是非ともご鑑賞いただきたい、それだけである。
 
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2016年10月20日

(書評)海外勤務が決まったらすぐ読む本


妙に生々しい具体性に溢れた本。海外勤務が決まってなくても読んでおいて損はない。
タイトルに食指が動いた人は、巻末の「本書のまとめ」をさっと読んでみて、良さそうだと感じたらレジに持って行こう。


大学卒業後に高収入を得られる職業に就こうとしたとき、いままでは医者・一流企業就職・外資系就職・ベンチャー立ち上げが王道だったかに思う。いまでもこのルートは通用するが、一流企業就職には陰りが見えてきたようだ。というのは、サラリーマンは今後、いまほど美味しいところがなくなっていく趨勢になりそうだからである。知らぬ間に徴収されている税金はその額が膨れ、年金の優遇も怪しいものだし退職金も削られていくだろう。組織の一員になることでその庇護に預かるために、より大きな代償を必要とする向きにある(経営陣にとって、サラリーマンとは搾取される存在だということを隠さなくなる)。

こうなってくると、死に物狂いで狂乱難関の医学部受験を突破して医者を目指すか、外資系かベンチャーかということになろう。ただ、医者も実態はブルーワーカーだということがバレてきているし、稼ごうと思ったら先行投資の考えで体力のある若い時期を全て医学に注ぎ込まなくてはならないだろう。医療事故とモンスターペイシェント、医療訴訟に怯えながら…。

残る外資系とベンチャーは良くも悪くも実力勝負の世界だから、一人の社会人として高い能力を有しているかどうかが問われる。いくら頭脳明晰でも人と満足のいく交流ができない人は向かないし、口達者でも中身ががらんどうならビジネスの相手をしてもらえなくなる。能力ある個人がまずあるのであって、組織というブランドがないからである。

本書では、評価される人材になるために、読者が習得しておくべき事項が挙げられている。修学旅行のしおりのように、かなり具体的に記されているからまるで道標である。要職についているサラリーマンは膝を打つところが多いのではないか。筆者の個人的なバイアスがやや強くも感じられるが、実行に移せそうな意見はあるはずだ。伸びる人は良いと判断した知見を即座に実行する人である。勉強会やセミナーも、そうだ。素直に実行に移すことのできる人が伸びる(裏返せば、大多数の人は学んだり聞いても、その場限りで実行に移さない。なので伸びない)。本書の内容をどう判断するかは、無論、読者次第である。


これからは海外だ英語だ資格だとプレジデントあたりが喧伝している姿を横目に、なにをいう、英語の必要ない国内企業の世界で立身出世するほうがよほど堅実で実りの多い生き方だと述べる人もいる。私は、どちらも正しいと思う。自分が社会と対峙するときの、己の立ち位置をどこに置くかの話でしかないので、どちらも正解だと考えるからである。

なお、英語というのは道具であるから使う必要のない人には全く必要ない。それこそ義務教育で習ってほとんど忘れてしまった先に残っている程度の「英語」でがあれば十分である。「死なない程度に」使えれば合格点だ。それぐらいの素養があれば、道具として磨こうと思ったとき、すぐに勉強が軌道に乗るからである。

サラリーマンであれば、色々と批判はあるがTOEICで高スコアをとると自身の出世につながる場面があるので、なにを勉強するか迷うなら英語を選ぶとよい。英語ができること自体が自慢できることでも出世栄達の決定打になるものでもないが、英語ができるようになると海外への視野が面白いように開け始める面でも恩恵が多い。


今後、海外で自分の人生をあてることをわずかでも考える人は本書を読むと良い。そんなの分かんない、という人も読んでおこう。国内だけで完全に完結できる仕事と人生は豊かで幸福なことだが、なんだかんだで英語が必要になり、海外と対峙することがオープン化しているからである。

とはいえ、全ての人が英語を駆使して世界を相手に仕事をするレベルには決してならない。そうした状況にあって「平均以上に海外を相手にできる人材」が求められるだけであろうし、そのとき、そうした人物として推挙されるか手を挙げられるかが出世に影響する。国内で仕事に従事していても、もうそれも海外勤務みたいなものと達観してもよいかもしれない。外貨を稼げる人材が輩出される日本の姿を待ち望むばかりである。
 
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2016年10月15日

クスノキ

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熟して黒くなった果実。葉を千切ると樟脳の匂いがする

 秋になると、クスノキの側には黒い実が地面に落ちている。木から落下したクスノキの果実である。拾って果肉を剥げば、中に種子が入っているのを確認できる。果肉は不味くて食べられたものではないが、鳥たちは食べるようだ。実が鳥に食べられることで、糞と一緒に排泄ざれることで種子散布がなされる。これはタブノキと似ている(タブノキは夏に種子が散布される点では異なる)。

 クスノキは材や葉に樟脳を含むため、近寄ると独特の香りがする。樟脳は防虫剤で有名な成分であるが、医薬品にも用いられる。巨木に成長するので、鎮守の森や神社、公園に存在することが多いようだ。昔から日本人に深く関わってきた樹木である。

 発芽させるためには、今の時期に実を拾ってきて果肉を剥ぎ、種子を取り出す。疎水性の果肉を布なので綺麗に除去して撒けばよい。そのまま冬を越し(冬の寒さを経験し)、春を迎えると発芽を開始するが、一般的に発芽率は悪く、芽ぶくのも遅いようだ。最終的に巨木に成長するが、その始まりはシビアでスロースターターのようだ。

 実を拾って気が向いたら、空いた鉢植えやプランターに、空き地にでも植えて気長に発芽を待てばよろしかろう。春を迎え、種を撒いたのことを忘れてたあたりに芽ぶくのだろう。
 
ラベル:樹木
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2016年10月09日

(所感)ルポ塾歴社会


できる子が東大法学部・理Vを目指すなら、確実なレールが用意されてまっせ!という本。タイトルを翻訳して換言すれば、一流大学(および医学部)に合格するには、どの高校に入学する(学歴)かではなく特定の塾に入学すること(塾歴)の方が重きが置かれているのが現実である、という本。

受験勉強というのは、勉強ができる子のオリンピックのようである。勉強もスポーツ等と一緒で、できる子はズバ抜けてできるし、できない子は(できる子ほどには決して)できない。できる子には、できる子のための塾があり、そこでできる子は更にカタパルト式にできるようになる。できない子でも、プロの力を借りれば、かなりできるようになるだろう。結果として、最難関大学・学部を「圧倒的成績でもってパスする」学力を身につけることになる。このできる子のための塾というのが、サピックス小学部と鉄緑会という2つの塾である。この塾に入学し、カリキュラムについていけば東大理Vだって夢じゃない。というか、理V合格者の6割が鉄緑会出身者なのである。そしてその鉄緑会に入塾するには、サピックス小学部を経て超一流校に入学していなくてはほぼ不可能。大学受験は、小学生から始まっているのであり、どの塾に通うかが問われるのである。

学歴社会における学校と塾についての作者の考察が興味深い。学校は学校の意義と弱点があり、塾も然りであって、塾があるからこそ学校は学校でいられる。勉強が好きで学力を望む子は、塾を利用することで、学習内容をより深く多面的に学べる機会が得られる。また、自分と似た学力や立場にある生徒と交流できるし、肩を並べて競い合える。受験勉強を考え、能動的な教育を求める場合、塾はかけがえのない価値を発揮する。

なかには塾に通わず学校教育だけで優秀な成績をおさめる子もいるだろう。それは極めて理想的な、本来的に望まれる姿に違いないが、現実的にはごく少数の存在だろう。学校で学んだ内容をより正確に理解し学力とするためには塾が求められるのである。本書では触れられていないが、家庭に塾に通わせる金銭的余裕がないことが原因で望む学力が得られない子どもが存在する。これを本人の甘えとか保護者・教師の怠慢だと断ずるのは簡単だが、現代では塾が子どもの学力のために不可欠な存在と化していることを示している。だいたい、塾に通わず学校教育と自習で非の打ち所がない優秀な成績を収めるのは素質的に勉強ができる子か変人なのであって、ごく少数に過ぎない。

学歴というのは最もコストパフォーマンスの良い身分証明書でもある。良い学歴のために受験戦争を戦い一流大学に合格することを望む人が多いのは当然のことである。受験というのは試験であるから、そこには正解という解答が用意された、極めて公平なルールで成り立っている。突き詰めれば、ルールを理解して効率よく正解を導く処理能力を極限まで高めれば試験に合格できる。

さて、そうやって一流大学に合格した、受験勉強の勝者が、社会に出てから世を導いく主導者・傑物たりえるかどうかは不明である。著者は、そうした勝者に足りないものは回り道ではないかと述べる。これは、受験エリートは社会に出てからはさして伸びないという、世に蔓延るバイアスを思い起こさせる。紆余曲折、失敗、挫折を経て、そこからなにかに気づき、努力して成功を収めた人物の方が、受験エリートよりも強い(ハズだ。そうあって欲しい)という考えだ。学歴だけが人生ではないのである。それはその通り。しかし、この言葉を額面通りに受け取ると痛い目にあう。学歴は足の裏の米粒であって、取らないと気が済まない存在ではあり続けよう。学歴のある人物が社会に出てからは自助努力を怠れば容易く凋落する(「学歴あるくせにあのザマか」と蔑まれるおまけ付)し、学歴がない人であっても社会に出て肩猛烈な努力で成功を勝ち得ることは少なくない。だからと言って、学歴がなくても良いわけではない。ないよりは、あったほうがより有利であることは間違いないからである。

学歴がない人が倦まず弛まず努力の末にスターダムにのし上がるのは、庶民ロマンと一種のカタルシスを感じるものだが、これは受験戦争に勝ち抜いて一流大学に合格するよりも難しいだろう。難しいけれど不可能ではないというだけだ。回り道といえば回り道をしている。しかし、こうしたルートを辿った人は、なるほど、受験エリートよりも強そうで魅力をおぼえる。筆者は明言を避けているが、こうした人物の方をより好ましいと考えている。私も、そう思う。学生時代に遊び呆けていた劣等生が、社会に出てから討たれ倒れ這い上がり、たゆまぬ努力を続けた結果、飽きっぽい優等生を追い越して成功する。ここには、確実に大きな成長があるからである。失敗のない受験エリートは、失敗と挫折に弱いと、過去、連綿と指摘され続けてきた。そうかもしれないし、そもそもの彼らの地の頭の良さが、そうした場合も想定済みで予防策と克服を難なくこなして対処しそうな気もする。


蛇足。高学歴が鼻持ちならないクソインテリというのは偏見である。そしてまた、低学歴が人情味あふれる気持ちのよい人物像というのも同様だ。むしろ低学歴の連中の方が愚劣で粗野で理屈が通じることのない、前頭葉がどっかいっちまった感情だけで生きているような人物像であったりする。こんなことは誰も指摘しない。無論、私の非道徳的な偏見かもしれない。とはいえ、付き合って「無難な」人物は、間違いなく高学歴である。そして、どのような人物と一緒に仕事をしたいかを決める就職面接では、やはり高学歴が優遇されるのである。差別?人間扱いしているから差別じゃないでしょ。

なお私は高学歴でも低学歴でもない、学歴コンプに苛まれることも周囲に期待される余計なプレッシャーもなくて済む実に居心地のよい塩梅にいる。子どもにとっては期待されないことは罪だが、大人にとってはそうでもない。余計な騒音や心理的緊張に苛まれることなく活動できるのは実に魅力的だ。頑張って何かを成し遂げれば素直に賞賛されるし、頑張らず怠惰に過ごしてもガツガツせず気ままに生きているように見られるからである。

posted by ぎゅんた at 22:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 漫画以外の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月07日

スダジイをお茶で味わう

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簡単な手順
1.新鮮なスダジイの皮を剥き、実を集める
2.粗挽きにして焙煎する
3.煮出す
4.味わう


 スダジイはシイ属の堅果(いわゆる「どんぐり」)であり、俗に言う「椎の実」である。正確にはツブラジイの兄弟だが、私が住んでいる地域ではツブラジイが見つからないので、椎の実といえばスダジイを指すのである。

 それはさておき、スダジイとツブラジイは生で食べられるほど食用に適したどんぐりとして有名だ。スダジイとツブラジイはアクをほとんど持っていないため、生で食べられるほど口当たりが良いのである。縄文人が保存食にしていた痕跡が残っているし、飢饉食として食べられた経緯もある。飽食の現代でも、好事家に食べられている。私も子どものころ、腹が減ったときにスダジイを拾って食べたものであったし、いまも秋になると拾って食べることがある。これが生で食べられるなんて昔の人は本当に重宝しただろうと、地面に無数に散らばるスダジイをみながら考える。仄かに栗のような風味が鼻腔を抜ける(なお、クリも「どんぐり」である)。

 スダジイを拾って集めていると、ご年配の方が「おや、椎の実ひろいかい?」と声をかけてくれたりする。軽く炒って塩を振ると美味しいよと教えてくれたりもする。戦後の食糧難の時代では、みんなで拾って食べていたそうだ。いまは食べないという。貧しかった時代を思い出してしまうのが辛いのだろうか。幼いころに感じた味は、その人の人生に深く刻まれる記憶なのである。


 

淹れてみよう飲んでみよう
 拾い集めるスダジイは、なるべく殻(果皮)の色が黒々しいものが良い。落下したての新鮮なものほど殻が黒いからである。これを水に漬けてみて、浮かぶものは古すぎたり虫が喰っていたりするものなので除外する。沈むもののみを利用する。


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←除外 使用→

 水から上げて殻を剥き実を集める。このとき、ペンチを用いると効率が良い。スダジイの尻の部分あたりに軽く力を加えるとパキッと亀裂が入るので、そうしたら胴の部分あたりにも軽く力を加えると縦亀裂が入る。あとは爪でこじ開けて殻を剥く。身はアーモンドナッツよろしく茶色の種皮(渋皮)で覆われているのでこれも除去する。古く痛んでいるものは殻の除去が難しいし、実が茶色く変色したりする。そういうものは除外する。


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 ミキサーや包丁で粗挽きにしてフライパンで焙煎する。ほうじ茶のように好い香りがたつわけではないが、なんとなく匂いはする。写真の状態はやや深炒りかも。ここまで熱を加えると身は硬くなり過ぎて食べられない。


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 お茶パックに入れて煮出す。一度、水を沸騰させてカルキ抜きしてから煮出そう。あまり色は出てこない。このときの水の量が多かったのかも。

 素朴な味で風味の良いお茶が好きな人は喜びそうなお味。毎日飲み続けていいレベルで美味しい!ほどのものでも無いが、野趣あふれる香ばしさと控えめな甘さに上品さを感じる。健康食品が好きな人に健康茶デス、と飲ませたら喜ばれそう。熱い状態でも冷やして飲んでも、どちらもいける。当然ながらノンカフェイン。


 恵みの秋が「食欲の秋」だなんて形容されるようになったこの飽食の時代に生きているからこそ、一度は味わってもらいたいお茶である。スダジイ集めと殻向きの手間はかかるが、その過程こそが重要なのである。
 
ラベル:樹木
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2016年10月04日

【試乗】アルト(FF/CVT)

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グレードはX(多分) 走行距離1770km。

Xは上級グレードのようである。なんと運転席と助手席にシートヒーターが備わり15インチを履く。値段優先で軽量で燃費の良さが売りのクルマにしては豪華絢爛すぎる印象。最近の軽自動車はグレードにもよるが、普通車顔負けの装備で武装されているのである。エネチャージやアイドリングストップ、ブレーキアシストも付いている。

運転するために乗り込む。ドアはびしゃんとスズキっぽい音と感触で閉まる。これはアルトワークスでも感じたことだが、着座位置が高く感じる。相対的にサイドブレーキが低い位置に感じる。車内は実際的には小さく狭いはずだが、体感では広く開放的。軽自動車だからと車内が狭苦しくはないのである。後部座席はやや狭いが、荷物置き場と割り切れば広大な空間となる。リアシートのすぐ向こうにリアゲートがあり、畢竟、リアトランクの空間はひどく狭い。ベビーカーが乗るか乗らないかといったところ。軽自動車に積載性を求めるならスペーシアやタント、ウェイクやN-BOXといったトール系を選択せざるを得ないだろうし、そのためにラインナップされているのである。

ブレーキを踏みながらエンジンをかけると速度計の針が振り切れるスイープ演出が見られる(タコメーターはない)。アイドリング時のエンジンは静かである。ギアをDに入れサイドブレーキを解除し、ブレーキから足を離すと強いクリープで車体が動き、慌ててブレーキを踏んだ。CVTはクリープが弱いように考えていたが、アルトの車体が軽いため強くでるのだろうか。

駐車場から道路に右折で合流する形でドライブ開始。アクセルをゆっくり踏み込んでのんびり加速をさせてみる。案外に直ぐに50km/hに達してしまった。これは速いクルマなのかとアクセルをガッと踏んでみたところ、エンジンがワーンと唸って、ワンテンポおいての加速を始める。しかし決して速くない。軽量といえど0.66LのNA3気筒エンジンでは動力性能的に過分さを求めてはならない。巡航時に無理な追い越しをかけたりするのは危険そうだ。NAの軽自動車は、町乗り速度0-60km/hの範囲を扱いやすい動力性能でカバーしてある(に過ぎない)クルマなのである。常に余力をもった、余裕ある走りを求めるには力不足は否めないだろう。もっとも、0-60km/hのレンジは鉄板なので、発進から遅くてもたつくとか、気を抜くと失速するとかいった事態は見られない。加速したらアクセルをパーシャルで踏んでいるだけで極めて自然に、あたかも自動的に60km/hに達して巡行しているような塩梅だ。

ブレーキは、そのプアさが気になった。効きが頼りなく扱い辛いのである。ガッと踏めば効くのだが、そうすると車体に不快な振動でてしまう。減速はショックレスに行いたいものだ。このアルトのブレーキは、踏んでいくにつれて減速が強くなっていくリニアさが乏しい。少し踏んだところで効きが悪く、焦って強く踏むとガッと効き始めてしまう。慣れてくると、ガッと効き始める直前のところまでペダルを踏んで微調整をできるが、ブレーキは常にリニアであることが望ましいと考える向きは合わない性格だ。

もう一つ気になったのは、アクセルペダルを踏む右足のくるぶし辺りが痛くなって仕方がないことだ。私のペダルを踏む足の角度が悪いだけかもしれないが、運転を始めて10分ぐらいするとくるぶしが痛み出してアクセルペダルから足を離して休ませなくてはならなくなる。踵を支点に足の指先あたりでアクセルペダルを踏むと痛くなるようだ。これでは長時間の運転が苦痛で仕方がない。踵でアクセルペダルを踏めば解決する程度のことだが、その踏み方だと微細なコントロールが難しくなる。

ステアリングフィールは想像していたより重めの味付け。路面からの情報はなんとなく希薄。クルマのキャラクター的にコーナリングマシンであるわけがないが、カーブの連続する道を60km/hを保ちながら走り抜けるぐらいは余裕で可能。もう少しフラつくものかと思ったが、重心をなるべく下に設けることで安定さを得ているシャシなのだろうと思える。ただし、急な切り返しを連続で行ったり、コーナリング時の速度をもう少し上げようものなら、尻の下あたりからソワソワ感が伝わってくるというか、要するに限界それ自体は低いことが分かる。一方同時に、足回りのセッテイングを変えればもっと攻められるクルマに化けるポテンシャルを秘めているように思える。素性の良いシャシであるろう。このXグレードが走りを優先したグレードであるわけがないので、キビキビとした走りを常に味わいたいのであえばRSやアルトワークスを選ぶことになる。

アルトは軽量小型安価をウリにした軽自動車であるから、コストパフォーマンスの良さが期待されるクルマだ。そしてそれは賞賛されるレベルに仕上がっている。実に魅力的な軽自動車であるが、アクセルを踏んだ状態をキープしていて痛みが生じることが気になった。VPバンやアルトワークスの試乗の時には気にならなかったというのに、はて、なぜだろう。靴が悪かったのかな。

posted by ぎゅんた at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 試乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする