2016年05月27日

どんぐりの苗木を作ってみるという趣味

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クヌギさんたち


園芸や盆栽という趣味がある。普通、高齢者向けの「枯れた」趣味とみなされる。その昔、こち亀で「盆栽が育つ頃には本人があの世にいってるぞ!」と両さんが声にしていたが、まあ、確かにそうかもしれない。植物の成長は遅く、その育成は緩慢な付き合いにならざるをえないからである。人生の歩みを植物の育成に重ね合わせるようなところがあるから、せっかちな人には不向きな趣味とは言えそうだ。

さてそんな植物を対象とした趣味、代表的な園芸や盆栽は王道とはいえ本格的すぎる。初心者には敷居が高いのである。「なにをいう、本人が楽しめればいいのだ」という向きもあるが、手軽に始められるかといえば、そうではなかろう。もっと手軽でコストがかからず、植物の育成に寄り添う醍醐味を味わう方法はないものか。アルファルファや雑草なんぞを育てるのも悪くないが華がなさすぎる。薔薇や花を育てるのは華があっても男の子らしさがない。


そんなかんだで落としどころを探ってみると、どんぐりを拾ってきて発芽させるのが良さそうだと考えた。幸いにしてどんぐりは、子どもの頃から小学校やそばの神社で馴染み深い存在。秋口ともなればよく拾って遊んだし、食べたりしたものであった。そして今も、散歩に行けばどんぐりの木は変わらず存在している。どんぐりの木は、広葉樹林であり、日本国土の山林を構成してきた樹木のひとつである。となりのトトロに出てくる木、といえば子どもでもイメージできる。日本の原風景にある木であり、禁ではどことなく身近でなくなった近年にでもある。最近は戦後の我が国の林業の荒廃や里山の消失といった話は、私は明るくないのでなんとも言えないが、見渡せば杉だらけの山は味気ないと思う。


さて、どんぐりを発芽させようと思いたっても、まずは知識の整理と準備が必要であるから、これからド素人記述を行いたい。

どんぐりというのは、あくまで総称であって、どんぐりの堅果をつける樹木は多数ある。↪︎wiki
私の住んでいる場所では、クヌギとスダジイを入手できた。その土地によって生息している樹木には差や特徴があるもので、育てるのであれば、その土地に昔から存在する種を選択すると間違いがない。そして、どんぐりがなる木は、小学校や神社や公園に行けばどこかにみつかるはずである。

どんぐりを拾う時期はご存知の通り秋であるが、発芽のために土に埋める時期も秋である。どんぐりは、土の中で寒い冬を超すことで発芽のスイッチが入るからである。秋に拾ったどんぐりを土に埋めたら、春まで発芽を待つばかりということになる。その間に行うことは、種子が乾燥しすぎないように必要とあれば水を与えることぐらいである。完全放置で水やりを降雨に任せていても、意外になんとかなる(あくまでスダジイとクヌギだけを扱ってきた浅い経験に基づく)。


どこで発芽させるかは、以下の通りになろう。

1.成長して木になって欲しいと思う場所に、直にどんぐりを播く
2.ポットや植木鉢


どんぐりの木は成長によって根が深く広く張っていく特徴がある。木が大地に根を広げていくことで、土砂崩れや地盤崩壊を防ぐことになるのは有名である。これは、太い主根が杭のごとく土壌深く伸びていくと同時に側方に副根が這って強固な網状を形成するからである。この際に重要なのが地中深くに伸びる主根であり、2.の、ポットや植木鉢で発芽させた場合、根は下に伸びることができずポットや植木鉢内でトグロを巻くように伸びざるをえない。これは自然科学的に不自然なことである。ポットや植木鉢でこのように根を張らせたどんぐりの苗木を、どこか土壌に移植したとしても、本来的な根の広がり方は期待できないことになる。そのため、根による補強効果は期待以上のものにはならないと思われる。従って、土砂崩れや土壌崩壊を目的にどんぐりの木を用いるのであれば、ポットや植木鉢で発芽させた苗木を移植するのではなく、直播きして発芽、生育させなくてはならない。

こうしたことは、趣味でどんぐりを発芽させて鑑賞的に育てるのであれば気にする必要はないことだが、将来的に、国土の保全的な、土壌を根で補強することを目的に苗木づくりを考えているなら、直播きから育てあげるべきである。

「(とりあえず)どんぐりの苗木を作ってみる」のであれば、殆ど観賞用であろうから、ポットや植木鉢で発芽させることになろう。庭や空き地に直播きで植えることができる人もいるかもしれないが、順調に育って大木となった時に、広く深く張る根が、(人間にとって都合よく整備されている)地面や塀を破壊する恐れがあるのでオススメできない。もっとも、その前に育てた本人があの世に行っているかもしれないが。私は直播きはせず、ポットや鉢植えなどで発芽させた経験しかないので、そちらの方法について記事を書く。

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苗木業者か将来的な意図的植樹が目的でなければ、このような育て方はしなくてよい(後悔中)


種を植え、発芽させるための容器としてポットや鉢植えがある。まずポットは、理科の時間や農業で馴染み深い、あの黒く色気のない「ビニールの鉢植え」をイメージしてもらいたい。作業的に大量の苗木を作ることが目的でなければ不要である。というのは、キチンとやれば、植えたどんぐりは高い確率で発芽してくるので、数でカバーする必要がないからである。また、ポットで発芽させると、先述のとおり将来的な根の発育に不安要素が生じる。少しでも植物の根の成長が自然であることを優先するなら、垂直的な高さのある容器で発芽させた方がマシである。

こうなると高さのある植木鉢を用意するのが望ましいが、これを用意するとなると金がかかる。そこで紙コップを利用する方法をオススメしたい。適当な紙コップではなく、スタバやタリーズでみられる特大サイズのものを用いる。映画館でポップコーン購入した時に、高さのある紙容器であった場合も利用できるだろう。この場合の利点は、ゴミの再利用になると同時に、苗木の植え替えが容易になる点、(推奨はしないが)地面に埋めれば土に還っていくことにある。綺麗に洗って底に排水用の穴をボールペンの先でズコズコ開けるだけで使うことができる。

次に、どんぐりを埋める土である。
その辺の畑や空き地や山から採取してもよさそうだが、雑草の種が混じっているし、案外に手間がかかる。ホームセンターで最安値の培養土でも買ってきて、それと余っている土(枯れてそのままになってしまった植木鉢など)などを混ぜ合わせて用意するのがなんだかんだで手間がかからないしお金もかからない。土に求められる性質は、適度な排水性と保湿性と栄養分であるが、適当でも大丈夫である。紙コップの底に小石や枯葉でも敷いたらその上に土を盛っていけばよい。

埋めるどんぐりは、住んでいる地域で採取できるものでよいので探しに行こう。私の場合は、スダジイとクヌギだった。秋になれば木の下に落ちているので拾いに行こう。拾ったどんぐりをそのまま土に播いても発芽率は低いので、ひと手間かけることになる。

まず、拾ってきたどんぐり水に漬ける。虫が喰ったり傷んだものは浮いてくるので、これは発芽しないから除外する。水の底に沈んでいるものを播くことになるが、半日〜1日ぐらいはそのまま水に浸しておく。どんぐりは乾燥に弱いので、十分に水を吸わせておくことが重要だからである。これは土の中に播いた後も同様であって、発芽する春まで乾燥しすぎないよう、常に土を湿らせておくことになる。これさえ心がけておけば、春になると一斉に芽を出し始める瞬間を迎えることができる。

スダジイ.jpg
プランターに適当に埋めたスダジイの殆どが発芽してえらい目に(発芽は計画的に!)


仕込む時期は秋、どんぐりが地面に落ちているころからである。

用意するもの

・任意の容器(高さのある紙コップがオススメ)
・ホームセンターで購入してきた安い培養土
・土いじり用のスコップ
・あなたの家の周りに存在するどんぐり

こんなもので大丈夫。お金がかからないことが第一である。

埋めるどんぐりは、表面から2センチぐらいの位置に横にして置く。置いたら、その上から土を盛り、水を与えて湿らせる。これで終わり。春まで待つばかりの日々の始まりである。スダジイは3-4月頃、クヌギなら4月終わり頃から芽をだす。半年近く待つので、のんびりしたものだ。

スダジイは地味にひっそりと、気づいたら芽を出している感じ。成長は遅いが、典型的な緑の双葉を咲かせゆっくり控えめに成長していく様を楽しめる。
クヌギは堅果が大きく胚の栄養がリッチなためか成長が旺盛で、芽を出したらすぐに屹立とする姿を拝むことになる。「苦抜き」として縁起の良い木でもあるし、色々と分かりやすい「どんぐりの木」であるから、拾える環境にある人はクヌギでチャレンジすることをオススメしたい。

発芽した後は、土が乾燥しないよう水やりを行う。光合成のためと日光に当てすぎると葉焼けを起こすことは覚えておきたい(土も乾燥しすぎて熱を持ってしまう)。朝方と夕方ぐらいに陽が当たる場所がいいと思う。

もし発芽しなかった場合は、堅果が乾燥して死んでしまったか虫に食べられてしまったかである。その場合は、果物や拾った種を育てる、よろず発芽場に切り替えて利用するとよい。柿やビワやリンゴやオレンジの木なんて育てられたら楽しそうだ(美味しい実の収穫は期待できないので観賞用になる)。
 
ラベル:樹木
posted by ぎゅんた at 13:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月18日

映画感想「魔女の宅急便」どの層がターゲットなのか謎

魔女の宅急便.jpg

まとめ
小芝風花のイメージビデオみたいなもん


「魔女の宅急便」というと、ジブリのあのアニメーション映画を思い浮かべる人が殆どであろう。私もそうである。多数あるジブリ作品の中でも印象深い作品だ。原作があることを知ったのは成人してからだが、だからといって原作を読もうとまでは思わなかったものだ。「魔女の宅急便」は、ジブリのアレで完結してしまっていると心理的に決着がついているからである。そういう人もまた、殆どなのではないか。そんな「魔女宅」が実写映画化されると聴いて、眉をひそめた人も、また殆どなのではないか…
ただし実写映画のほうは原作基準らしいので、ジブリのアレのリメイクではないという点は興味深いものであった。


結果
駄作



劇場で公開されていたとき、開幕から10分、20分、30分ぐらいのタイミングで、席を立つ観客がいたに違いないと思わせる酷さ。席からズリ落ちそうになりながら最後まで観賞したとしてもご褒美は得られない鬼畜仕様。元々は修行で親元を離れた幼い少女の自立と成長、居場所づくりがテーマであったと思われるが、本作ではそんな感じはしない。いやさ、製作者らは主人公キキの成長物語を描いたのだろうけれども、なにもそんなメッセージはこちらに届かない。努力して汲み取ればそうと分かるけれども、感慨がわくことはない。

全編を通じて言えることは、クオリティが低いときのNHK教育番組のような合成感丸出し映像、CGアニマルズ、大きな独り言を口にしているだけのような大根演技、捻じ曲げた昭和エッセンスをぶっこんだ不気味な世界、非良識的過ぎる島の人々、なんら心に響かない台詞、何の印象も残さないドラマ、強引浅薄ご都合主義シナリオ展開。カバ運搬。物語に熱中できない退屈さは倦怠感の蓄積の始まり。そして子供だまし説法とノー天気エピローグで〆。気持ちが悪くなる。

引っかかる点は他にもある。

まず、パン屋の主人である、おソノさんの夫が知的障碍者にしか見えない意味不明さである。ロリコンのそれというか、言動が不気味で気色悪いのである。「知的障害者≠パンの製作」という悪質な暗喩にしか思えない。ひとえに、この映画に登場する「個性的な島の人々」の正体は、非良識的なクズばかりである。これもまた、「田舎の人間は、純朴で素直」というのは大嘘であることを示した悪質な暗喩かもしれないが、どうもそうではなく、真面目にそういう人たちとして撮っているように思える。

初体面の少女の腕を乱暴に引っ張ったり、当たれば怪我をするような物を平気で投げつけたり、乱暴に地面に引き倒したり、罵詈雑言を浴びせたり、小間使いにしたり、風説の流布を妄信してあまりにも邪険に扱ったり、大荒れの台風の中、離島にカバを運ばせたり(殺人教唆に等しい行為)…この島の人々にとって、「魔女」は忌み嫌われ恐れられる存在であれば話はわかるが、その辺の説明は想像して補うことしか出来ない程度のものしかないので確証はない。畢竟、彼らの振る舞いは13歳の少女に対して極めて礼節と人情味を欠く下賤さしかない。こんな連中と仲良くなってお前、嬉しいのかと唾棄したくなってしまう。

そもそもなぜカバにそこまで拘泥するのか。
カバの尻尾がライオンに噛まれたのは、飼育員の極まった管理不届きの結果でしかあるまい。そんななか、ゴムボートにカバを乗せ、ダクトテープで補修した箒で空を飛んで離島の獣医の元に届けるとか意味不すぎて観客置いてけぼり企画である。トンボも島への案内役とばかりにゴムボートに乗り込み、島に目指すことになるが、殺人教唆の煽りを受けているのは言うまでもないし、キキに島の方向を指示したりしない。島に着くと台風は去って、すわ晴天日和になるが上手く着地できず都合よく落下したところに獣医がいて懐中時計をカバの尻尾に垂らしてありがたいお説法の時間と相成る。なにを言っているのかわからないが本当にこうなのである。気になるなら見てくれとしかいえない。主演俳優のファンでもなければお勧めしない。
 
posted by ぎゅんた at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月10日

映画感想「フィフス・ウェイブ」



またこれか!

男の子は本質的にサバイバルもの好む生き物らしく、それをして設定に興味を惹かれ映画館へ。結果、ただのガッカリ映画で肩を落として帰宅することとなった。その正体はティーン・ノベルの実写化映画だった!
ダイバージェント」「メイズ・ランナー」そして本作。二度あることは三度ある。脚本の設定には工夫の加味が練りこまれた努力(ありきたりな路線にはしないようにしている)が見られて好感触。…なのだが、設定負けしたスケールの小さな世界観と投げっぱなしエンドに終わるのはなぜなのか。続編製作のための布石なのか、様式美なのか、撮影に飽きるのか。



ストーリーはだいたい、以下のようである

ある日、オハイオ州の上空に「第9地区」のヨハネスブルグ上空に現れた異星人の母船っぽい飛行物体が現れ、4度に渡り人類を攻撃し始めた。電磁パルス、大地震、鳥インフルっぽい疫病、そして生き残りを掃討する人間に化けたアザーズによる攻撃。汚い金斗雲みたいなドローンが空を飛び交う中、人間に化けたアザーズから身を隠しながら、主人公(女子高生)は生き別れた弟を探す。

と、こんな始まり。

序盤は、日常がアザーズの出現により崩壊していく様が描かれる。両親の死や弟サムとの別れ、旅立ちが描かれる。自分以外人間は、生き残りをなのか化けの皮をかぶったアザーズなのか見分けがつかないため、キャシーの心は疑心暗鬼満ちており、携帯する銃器が全ての拠り所となっている。目的地は、サムが連れて行かれた陸軍基地。主に森の中を移動しますが、ときおり補給物資のありそうな建物に入ったりします。飲み物とかタンポンは必要だものね。生存者がいてもアザーズと見分けがつかないからSATSUGAIしても仕方ないね。でも、自分だって撃たれて太ももに根性焼き程度の傷は負って歩けなくなったりはするもの。介抱してくれたいい男エヴァンの薪割り姿に胸がキュンとなったりならなかったり、驚異的回復力で自力歩行ができるようになってすわ基地へ向かうけれども当然ながらいい男と行動を共にすることになり、つかの間のロード・ムービーへ。エヴァンは当然、水浴びで裸体を晒すからこれを覗き見たキャシーは ジュン... となる。無論、これはこの映画のメインターゲットである非ジョックスのティーン・ガールへのサービスカットであるのは言うまでもないし、この後の展開は誰でも予想がつく。メリケンガールは積極的なのである。

一方そのころ的にサムサイドの場面も描かれますが、このへんからもうストーリーは簡単に予想のつく展開ですから、アザーズは第5の波「5th WAVE」を発動する予定であるとかどうたら知らされても気分は盛り上がりません。「5th WAVE =ちびっ子達を使ったサバゲー」に等しいので、アザーズの思考の残念さが本作の評価に直結する奈落の底誘導仕様だからであります。もうストーリー展開やキャシーのサバイバルがどうたらは二の次で、エヴァンの正体と行動に抱腹絶倒で意識が戻ってきません。チートコードを擬人化した愛に生きるアザーズ(ロリコン疑惑)はナニをどうやったのか陸軍基地に乱入してきて爆破活動を始めるからです。それも一個人が爆破するには、おそらく映画史上でも類をみない容赦ない爆破っぷり。I 'll find you!と姿を消して二度とスクリーンに戻ってこないところを含め必見です。この後は有無を言わさず続編の存在を匂わせ終幕。おまけシーンはありませんから、エンドロールが始まったら席を立っても大丈夫な親切仕様です。まだ月曜だぞオイ



この作品が伝えたいメッセージはなんだろうか
いかなる状況であっても、我々は人を信じる心を忘れてはならない
そんなところにあると思う。
コルト45と共に「誰も信用するな」と父に言われたキャシーは、確かにそうのように行動するのだけれど、常に緊張状態にあって気が休まらず苛立っている様相を隠せない。本当は不安で他人に頼りたいのである。そして、エヴァンと出会ってから、他人を信用することで活路を切り開いていくことになる。これはサムサイドでも言えることで、仲間を信じ、助け、庇うことが正解であることが示されている。"4th WAVE"で人間同士の不信を煽り、"5th WAVE"で人間同士の殺し合いを使嗾することからもうかがい知れる。実際に、キャシーは物語後半に表情が豊かで魅力的になる。そして、助け合う彼らは、それまでの表情とは打って変わって、歳相応の、魅力的な表情をみせるのである。
 
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2016年05月01日

映画感想「アイアムアヒーロー」 R-18の間違いでは


ホラーパニックアクション映画。傲岸不遜にいえば「邦画らしからぬ出来の良さ」である。成り立ちが漫画原作ありの低予算映画であり、その「事情」は作中の所々に認められるものの、それが本作の評価を下げる要因にはならない。本作には制作者らの熱意が図太く貫かれており、勢いをして最後まで観せてくれるからである。テンポの良さを重視したシナリオになっているが、上手く練られている。

主人公は、冴えない35歳の漫画家(アシ堕ち)鈴木英雄。言動に社会不適応者のきらいがみられる小心な常識人。こうした人物は、パニックアクション映画ではその設定からして死亡フラッガーなモブ役になりがちだ。サバイバルを図る主人公たちに対する引き立て役となって死ぬわけである。理由をつけては行動しない頑迷固陋な意気地なしに描かれるのが常だから、イラついた観客は彼の死をもって溜飲を下げるのである。本作では、そんな人物が主人公であるわけだが、大泉洋の素晴らしい演技も手伝って実に魅力的なキャラクターとなっている。彼は、自分が不甲斐ない、いつになっても変わることのできない男だと自責している。弱い男ではあるのだろうが性根が優しすぎるのである。この辺りの描写は、序盤から終盤にかけて丁寧に織り込まれている。だからこそ、英雄が他人を守るために戦うことを決意する場面が否応なく盛り上がることに成功している。

R-15作品だが、それは暴力描写が生々しく悽愴であるためだ。出血は言うに及ばず人体の欠損描写がなんの遠慮もなく表現されている。原作を実写化すれば、確かにこうなるのだから、制作者らは分かっている。グロ目当てで観てもいい。

本作はホラーパニック映画であるが、ホラー要素の大部分はZQNではなく、日常生活が理不尽に崩壊されるところにある。ZQNの外貌や動態も恐ろしいが、原因も分からずただ襲われるだけの立場に放り込まれることの方が恐ろしい。当たり前のように享受していた社会インフラや秩序が突如崩壊し、元・人間い襲われることへの恐怖である。この恐怖は、まだ年齢が若いと理解しがたい(想像のつかない)種のものではないか。歳を重ねるにつれ、死が、現実味を帯びた現象に変化する一方で、自分は如何にして死ぬかを薄々と考えるようになるからである。少なくとも私は、このような状況下に置かれた場合、生き残れるとは思えない。「感染した場合は速やかに殺してもらう」保険をかけようにも叶わず、アッサリと感染して終わりそうな気しかしない。馬鹿馬鹿しい想像に過ぎないが、色々と考えさせられるのはよいことだ。

感染の始まりや謎について一切説明がなされずエンディング迎えるが、これは「詳細や続きが気になるなら原作を読め」という示唆のようである。潔いつくりで好感がもてる。気になる点や不満もあるが、邦画らしからぬ出来のよさ(失礼)の前に、その指摘も野暮というもの。ホラーやゴア描写が苦手でなければ是非ともみておくべき映画である。
 
posted by ぎゅんた at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする