2014年11月27日

漫画感想「シトラス(全二巻)」成長の継ぎ穂


額縁にいれて飾りたいほど美しい二巻の表紙もお気に入り

 改めて読み直したいま、やはり私はこの「シトラス」は名作だと感じる。一般的な少女漫画と比較すると、分かりやすいハッピーエンド路線とはいえないし、メインであるべき恋慕ドラマも薄味である。主人公と呼べるキャラクタは四人の中学三年生で、ストーリーはオムニバス風に進行していく。多感な時期にある彼らがなにを考え、なにを選択するのかが本作の見所である。


 『思春期』なる単語を脳裏に浮かべた時、貴方はなにを想起されるだろうか。青春である、と断言できる人は幸せな人だと思う。私は、そこまで思春期を肯定的に捉えることができない。第二次性徴、精神の不安定、ニキビ、焦燥感、癇癪…。思春期は青春とイコールではない。だから、爽やかで若々しく温かい。そんな美しい時期ではないと思う。自分が、あらゆる周囲から無秩序に引っ掻き回される様を客観的に認識していながらも抗うことができない。そして、そのことによる苛立ちに常に翻弄され続けている。私は、思春期ときくと、こうした成長期の不安定な精神状態を想起するのである。

 思春期の心理状態もその時期も個人差が大きいものだが、私を含めて多くの人は中学校2年生から高校1年ぐらいの間だと認識しているのではないか。この時期は、身体と心理の急激な変化に加え、自己と社会への具体的接点が確立し、自分の将来と向き合わざるをえない。端的にいえば、子ども時代と別れを告げて大人となる過渡期である。楽しかった思い出もあれば、思い出したくない過去もあろう。この作品の惹句「青春が甘酸っぱいなんて嘘 」とは、この作品の内容を端的に表現しただけではないのだ。

 個人的に気にいっているのは第8話である。この回は、それまで主要キャラクタたちから一線の距離が置かれていた蒼馬の救済と再生を描く感動的な物語である。しかし、決して愉快な内容ではない。

 彼に必要な答えは、前向きな気持ちになって考えてみる、それだけのことであった。しかしそれは、自分で見つけられはしなかった。しばしば「(人生において)答えを見つけ出すのは自分自身」と言われるが、それが常に正しいとは限らない。まだ視野の狭い不安定な思春期にある一少年においては、とくに他人からのガイダンスが不可欠であることの方がしばしばである。少なくとも、蒼馬には志保がいてくれたことで、自分を肯定し、前を向けるようになった。第一話でみせた彼の優しさが自分に返ってきたのであった。

 私はふと、作者はこの回をどのような思いで仕上げたのだろうと考える。淡々と描いていたのだろうか。それとも、傷ついた蒼馬の心にひとまずの安寧を与えたいと思いながら描いていたのだろうか。別段、なんの思い入れもなく淡々と描きあげた。それが事実であろうと思う。それでも、私はこの回の物語を愛してやまない。



まとめ
・漫画『シトラス』は、思春期の頃の不安定だった自分自身を懐かしく思い出すことがある人や、多感な時期の少年少女の成長する姿が好きな人にオススメしたい作品である。ただし、中学三年生の派手な恋愛模様は期待してはならない。

・ぎゅんたは香魚子先生を応援しています。
 

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2014年11月24日

映画感想「インターステラー」黒人クルーの食料問題はスルー


まとめ
SFと宇宙が好きな人にオススメ


 月面に立っている人が、手に持っているボールペンを放したら、ボールペンはどうなるか?勿論、月面に落ちる。月には弱い重力があるからだ。もしあなたが、ボールペンはその場を漂うとかすっ飛んで行くと考えるなら、この映画はオススメできない。なぜなら、この映画における重要キーワードが重力だからである。加えて、宇宙学習映画ではないから、学術的な説明はあまり親切ではない。従って、理科全般に疎いとか嫌いだったりすると拷問の3時間となるは必定である。

 本作は公開前の情報を意図的に抑えていたようだが、それが成功しているかはさておき映画の内容は正統派SFモノである。フィクションなので、長期睡眠装置は実用化されてないとか、主人公を除いて宇宙飛行経験があるとは思えない専門家たちが何の訓練描写もなしに宇宙に旅立って行くのはオカシイとかキットカットみたいなモノリス風味ロボが萌えキャラとかツッコミをいれるのは野暮である。

 舞台設定は、地球規模の自然災害が著しく植物が育たず死にゆく近未来。世界各国は軍を保持するリソースもなくなっており、食料不足が喫緊の課題で、若者の大半が農業従事者となることを半強制的に定められている情勢。植物が育たないことから、将来的に、人類は食料不足と酸素不足により死に絶えると予想されている社会。

 このままでは人類は静かに先細って滅んでいく。人類が助かるためには新天地を求め宇宙に出る、それが人類存続の希望をつかむ最後の道でありながら、全世界的イベントでもなんでもなく、隠れNASA基地が独断で実行しているイベントにしかみえないのが凄い。宇宙の遥か遠く、ワームホールをくぐってまで到達して入植先を調査する凄まじくスケールの大きい計画であるのに、関わっている人間の数があまりに少なすぎる。なんとも…あまりにも不自然な話だ。けれども、特に違和感なくみれてしまうのは、そのような計画を人類全体で共有する一片の余裕すらない絶望的なリソース不足であることがわかるからである。おそらく米国以外の国のほとんどが国家体制が破綻して死に体になっているのだろう。そして当の米国も、既に国家体制が崩壊寸前なのだろう。大統領の姿はおろか、米国国旗も殆ど登場しない。特に詳しい説明もなく、ここまで死につつある世界を観客に暗に理解させるつくりは見事なものである。そして主人公は旅立っていく。実に孤独な宇宙の旅ではないか。

 この映画のテーマは愛であるらしいが、果たしてそうだろうか。娘に必ず帰ってくると誓う父の想いが感動を云々とか言っているが、アメリカ人のパパが娘に「帰る」と言ったら帰ってくるのは当たり前であって、何を言っておるのかと白けてしまう。これは「泣ける映画/感動作」を期待させる集客のための釣りにすぎない。「女性議員だからこその優しい政治」みたいなもんである。

 私は、テーマの真意は「人間」だと感じた。地球からどれほど離れた場所に移動しようと、人間は人間たる感情的な生物であり続けるし、適度な大気環境がなければ防護服なしで生きていけないし、呼吸することをやめることができない。生物は、死を迎えるその瞬間まで生命活動をやめないし生きながらえようとする本能に満ちているが、人間はあっさりと生きることを放棄したりする。かと思えば、死をも超越する誇りある行為を達成しようともする。

 ヒューマン要素を備えた正統派SF映画であるが、出来の悪い邦画のように感動を押し付けてくる無粋さはない。子どもの頃、宇宙の図鑑を開いて、あまりの広大さと不思議さに現実感を喪失して気が遠くなったことがある人は少なくないだろう。宇宙とSFが好きな映画好きは劇場に足を運ぼう。
 
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2014年11月14日

漫画感想「青山月子です!」第二話 from 別冊マーガレット12月号

aoyama tsukiko.jpg

まとめ
ぎゅんたは湯木のじん先生を応援しています。


 「藤代さん系。」「茜君のココロ」に続く人名タイトルシリーズ最新作。このタイトルについて、作者は誌面欄外にて「タイトルを考えるのが苦手」と述べておられる。しかし、これは話半分だろう。本当のところは、登場させる主要キャラクタを強い責任感の元に描きあげようとする意思の表れに他ならない。

 今回の物語で、作者が描きたいテーマはなんであろうか。事故で過去の記憶を失った主人公が自己を取り戻す過程だろうか。不思議ちゃん系主人公の、周囲と微妙に噛み合わない言動のチャーミングさであろうか。この作者は、相手への慈愛からくる心の触れ合いの機微を、ときにコミカルに、ときに色硝子細工のように確かな切り替えで描くことに長けている。まだ第二話だが、今回もその路線であることに間違いなさそうだ。

 記憶喪失(一過性でないもの)の人間は、現実には漫画の世界ほどいたるところに存在してやいない。あなたの周りに、記憶喪失の人はいるだろうか?いないはずだ。実際にいたとしたら、好奇や奇異の目で見られる存在だろう。とかく漫画では、記憶喪失が便利なキャラクタ属性として気軽に使用されるきらいがあるが、本来は、かなり稀有なものである。本作は漫画なので、主人公・青山月子が記憶喪失であることに異議を唱えても仕方が無い。記憶喪失の人物が、記憶喪失であることを理由に、周囲の人物らとある種の緊張感を生じていることが重要なのである。そして、記憶を失う前の自分の存在と今の自分との距離感がキャラクタに深みをもたらしているのは言うまでもない。

 これから、記憶を徐々に取り戻していくイベントや過程が豊かに描かれることだろう。そのことで、過去の自分「青山月子さん」に近づくと同時に、永遠に非自己であることに気づき索漠にとらわれる様がみられるだろう。あるいは、記憶の上書きが生じて記憶喪失から回復までの期間の記憶が一切失われることになるかもしれない。これまで発表されてきた作者の作品を読んできた限り、物語はハッピーエンドで締め括るスタイルのようだが、今回は初めてそうならないかもしれない。この「青山月子です!」は読んでいて、どこか不穏な空気を感じるのである。だが、いかなる結末を迎えようと、続きが楽しみな作品であることは変わらない。「藤代さん系。」の続きを楽しみにしていた頃と同じ高揚感を感じている。これは、幸せなことだ。



余談
人名タイトルシリーズは作者の十八番になりそうであるから、「古瀬夏夜子がゆく!(仮)」を発表されてはいかがだろう?
 
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2014年11月08日

書評「米国製エリートは本当にすごいのか?」


 一流大学、と聞くと次のような内容のコメントを思い出す。誰のコメントかは忘れてしまった。

「一流大学といえど、そこに通う学生の資質レベルはピンきり。卒業生すべてが社会的エリートとして巣立つわけではない。社会的エリートとなった卒業生こそが大学の名を上げる存在だが、その数は卒業生のせいぜい1%にも満たない。一流大学は、大学の名を上げるエリートの候補生1%を輩出するために、過去の1%が築き上げてきた大学ブランドに食いついてくる非エリート候補生99%を受け入れ、彼らの学費を利用して1%のための環境整備をしている。」


 この本に述べられていることは、実はあまりタイトル通りの内容ではない。通読すると、米国製エリートの特徴について詳述されているとは言いがたいと感じるだろう。最近は「タイトル詐欺本」といって差し支えない本が目だつ気がしてならないが、この本も抵触しているといえるのではないか。とはいえ著者は学者ではなく、留学して猛勉強したひとりのジャーナリストであるので、あまり糾弾しても仕方が無いところ(キャッチーで「売れる」タイトルが最も重要なのだ)。

 タイトルと内容の齟齬はさておき、読んでみると体験談や見聞は実にボリューミーである。英語、アメリカ人の考えや米国の大学事情、海外留学に興味のある人は飽きずに読破できる内容であろう。そこまででもない人は、読み飛ばしてしまうか、頭に残る内容ではないだろう。

 本書にその記述は無いが、読んでいて教育は国家百年の計であることを改めて意識させられた。いや、教育だけでなく、教養も不可欠だ。教育・教養こそ国家のインフラである。それで、世界に通用するエリートたちが排出される土壌が整う。エリートになるには不断の努力が必要だろうけれども、土壌が高いレベルで確立されていれば成功してエリートとなる人材は多く誕生するだろう。成功するために努力する。成功のためのコストが努力であって、努力するということは成功することを目的とするのである。少子化問題が解消され、自助努力が成功に結びつく社会が実現されることを望む一方、目下、たゆまず努力せねばならない(成功しなくてはならない)と思い至るのである。
 
posted by ぎゅんた at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 漫画以外の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月07日

(試乗)新型デミオXD 6MT touring package

demioXD.jpg

まとめ
・ディーゼルの長所を感じやすい名エンジン
・MTに拘泥せず、SKY-Driveで乗るのが総合的に優れている


前置き
 昨今のクルマにみられる室内の広さを優先する設計とは異なり、ドライビングを最優先させたマツダらしい設計のコンパクトカーが新型デミオである。横幅は1695mmのままであり、大きそうにみえる外観と裏腹に5ナンバーに収まっている。全長は160mm長くなり4060mmとなった。この延長が室内空間の改善のためにるのではなく、より良質なドライビング会得を目的としているのがマツダらしい。広苛烈な競争を極めるコンパクトクラスでどこまで存在感を出せるだろうか。

 試乗したXDは、SKYACTIV-D、いわゆるマツダのクリーンディーゼル搭載モデルである。ただし排気量はCX-5、アテンザ、アクセラに搭載していた2.2Lと異なり1.5Lとなっている点で異なる。単にデミオ用にと排気量を小さくしたものではなく、むしろ搭載するために様々な技術が組み込まれる苦労があったそうだ。マツダらしいのは、SKY-D2.2の気筒数を減らしたら気持ちよさがなかったので1.5Lの直4にしたという話だ。この辺の話は新型デミオのすべてに詳しいので興味のある方は読まれるとよい。

 そんなSKY-D1.5は、今月中に発表が予定されているCX-3にも搭載されるようだ。そして、そのCX-3はディーゼルエンジンのみのラインナップになるとの話がある。マツダはこのSKY-D1.5の出来に絶対の自信があるのだろう。SKY-Gの存在感がイマイチ薄いようで心配だ(NDロードスターで面目躍如なるか?)。

 エクステリアは、魂動デザインの流れを汲んだマツダフェイス。見慣れてきた感覚があるが、それだけ世に浸透したとも言える。トヨタ/レクサスのスピンドルフェイスと同じで、いずれマツダの「顔」として定着するに違いない。

 値段は安くない。商業車用に売れていたというボトムグレードの価格が135万円になったので、企業の営業車にはいままでほど採用されなくなるだろう。


極めて短時間の試乗であったが、得られた印象を以下に記す。


試乗へ
 アイドリング状態でのディーゼルエンジン特有のカラカラ音は、あまり目立たない。少なくとも、車内に入れば殆ど分からない。クルマに無頓着な同乗者であればディーゼルだと気づかれないレベルには達しているのではないかと思う。ただし、深夜早朝などの静謐な時間帯であれば流石に気づかれるだろう。いずれにせよ、大多数の人の予想を裏切る静かなディーゼルエンジンではなかろうか。

 乗り出してすぐに感じるのは、アクセラXDのときと同じで、運転時に実に安定していると感じることだ。外車然とした重厚な乗り味と表現すれば良いのだろうか。それでいてエンジントルクフルなのでモッサリ感がない。軽量でキビキビした運転ができるコンパクトカーも魅力的だが、ドッシリと安定していて力不足を感じさせないコンパクトカーも魅力に溢れている。ブレーキングも良い。速度調節がかなり自然にできるよう躾けられているので、車体に勢いをつけずに、ショックレスで停車させやすい。私の好みに合致したブレーキングフィールである。

 クラッチは軽く、ミートポイントも広めで扱い易い。なお、ディーゼルの太いトルクに甘えてクラッチ操作をいい加減にすれば普通にエンストする。このへんの感覚は、アテンザ、アクセラのXDと変わらない。トルク的にもう少し粘ってくれる方が、ディーゼルエンジン「らしい」のにと思うのだが。

 シフトフィールは良い。スポーツカーのようにシフトから掌にブルブルとエンジンの鼓動を感じたりはしないが、ストロークが短く小気味良い操作感があることを、適度な重さと確かなゲート感で味わうことができる。ただ、新車同然の試乗車でまだ渋さが残っていたためか、4速から5速へのシフトチェンジの際に引っかかりがあった。なお、街乗り速度0-60km/hの範囲なら4速までで事足りる。発進してすぐに巡航速度に乗りたい場合は、2速に入れてアクセルを踏みこめばコンパクトカーらしからぬ力強い加速であっという間に60km/hに達する。一般にディーゼルエンジンは回らないとか回しても面白くないと評されるが、このSKY-D1.5はキチンと上まで回りパワーを伴い力強く加速してくれる上で楽しいユニットだ。

 ところで、MTモデルはATと違ってカタログ燃費スペシャル仕様であることには注意が必要である。具体的には、ギアレシオが広く高く、最大トルクが抑えられ、タンク容量が9ℓ減っていたりする。これはJC08数値対策にすぎず、マツダらしからぬ小細工に感じる。

 最大トルクが劣る(25.5→22.4kgf・m)とはいえ、トルクが太いことに変わりないから、ギアチェンジはズボラでもアクセルを踏み込めば走らせられる。ノンターボ軽自動車のように、適切に走らせるために常に最適のギアを選択せねばならないシビアさは薄い。これを楽でいいなと感じるか、物足りないなと感じるかはドライバー次第だが、私はこのMTならATの方がいいのではと感じた。試乗していないので無責任な発言となるが、MTのデミオを望む人はガソリンモデルの5MTがベストチョイスではなかろうか。とりあえずディーゼルモデルのトランスミッションは総合的にみてSKY-Driveのほうが優れていると考える。



 新型デミオは、いまのところディーゼルモデルが売れ筋だそうだが、それも頷ける。これを折角買うならディーゼル…となるのもむべなるかな。ガソリンモデルの新型デミオは、他社ライバル勢たちが手ごわい以上、商品力としてみれば訴求力が弱いのは否めないだろう。

 車内の広さに特別なこだわりがなく、ドライビングを優先させたいと考える人であれば、この新型デミオはかなり魅力的だろう。購入を真剣に考えた場合、ATとMTの両方の試乗、可能なら高速ツーリングの感触を確認しておくべきである。
 

posted by ぎゅんた at 01:05| Comment(1) | TrackBack(0) | 試乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月03日

映画感想「エクスペンダブルズ3 ワールドミッション」なんかスポーツ観戦的


まとめ
・シリーズ三作目
・微妙に可愛くない紅一点の登用や小ネタギャグの使いまわしなど「お約束」は守られているので安心
・ファンは必ず観るべきだが、過去作ほど熱狂できないかもしれない


 在りし日の大物アクション俳優たちを同窓会的にゴッチャ煮出演させるムチャ振りお馬鹿騒ぎ映画もいよいよ三作目。海外でのレビューがイマイチ芳しくなかったが、鑑賞してみると、確かにその通りであった。

 駄作であるというよりは、(ファンの)期待に応えきれた内容ではなかったことからくる失望感が大きい。内容的には保守的なアクション映画を踏襲しているし、地上波でロングラン放送できる安定したクオリティである。しかし前作、前々作ほど熱くない。「三作目でコケるの法則」は、サム・ライミ版スパイダーマンだけにして欲しかった。続編を出すに従って方向性を変えていかなくてはならない事情はあるだろうし、本作の内容からもそれは感じる。続編を出すからには、マンネリ化を避け、新境地開拓を狙うのは自然なことだ。だが「敢えて一切変えない方向性」を堂々と貫いても良いと思う。このエクスペンダブルズシリーズはそれに相応しい器をもったタイトルだけに尚更である。

 エクスペンダブルズの持つ方向性、もしくは捨ててはならないアイデンティティはなんであろう。ロートルたちの身体を張ったアクションと、かれらロートル俳優にまつわる小ネタの応酬、そして爆発と肉弾格闘である。これを蔑ろにすることは許されない。ルイヴィトンが各市町村の有料ゴミ袋をデザイン・販売するようなものである。

 あまり面白く感じられなかったのはなぜだろうと考える。シナリオにはとくに問題はない。この手のアクション映画のシナリオに難癖をつけるのは徒手空拳、徒労であり、愚行である。俳優たちのスケジュール調整も大変なので、撮影上の融通が利いて、かつシンプルで王道的な流れであれば良い。基本的にはエクスペンダブルズに立ちはだかる敵を打ち倒して皆で打ち上げができるシナリオであれば良いのである。そして、これは実現できている。映画の冒頭は、エクスペンダブルズたちが軽くひと暴れしてミッションを終え帰還、輸送機内でくっちゃべるのもシリーズ恒例。次のミッションで窮地に陥り、復讐をかねたミッションが始まるのも恒例。本作もこの流れを踏襲。細かく違うのは、ルーキーたちが積極的に加わってくることだ。人数を増やしてゴージャスにすると同時に、新境地の開拓でもあり、若手の俳優の登用でもある。これは続編を考慮にいれて行く上で必要なこととは思うけれども、頭の硬い私は、ロートル俳優たちがメインであり続けて欲しいのにと我儘な淋しさを覚えた。誤解しないで欲しいのは、私はルーキーたちが嫌いなのではない。好演が目立ち魅力的で、今後の活躍が楽しみに感じた。一方で、このエクスペンダブルズシリーズで、ここまで多くのルーキーたちを活躍させなくても良かったのではないかと感じる。なかなか複雑な心境だ。

 私の抱いた最も大きな違和感であり不満は、徹底した、無血的な暴力にある。血の一滴もスクリーンに映らないというわけではない。アクションシーンにおけるあらゆる暴力表現が、まるでゴア規制がかけられた洋ゲーのように不自然にカットされていることにある。至近距離から発砲しようが爆発が起きようが、血飛沫は生じないし、人体の変形も欠損も起きない。別にグロテスクな描写が見たいわけではないが、銃火器の暴力性が過度にフィルタリングされることで戦闘の緊張感がスポイルされている。まるで空砲かエアガンで撃ちあっているかのような、大規模で臨場感のあるサバイバルゲームを観戦しているような気持ちになる。暴力表現を排除して幅広い年齢層の支持を求めたのだろうか。CG合成の粗いシーンが散見するので、制作費が足りなかっただけかもしれない。冒頭のシーンも、過去作に比べると地味で味気なく、キャッチーさに欠けている。

 不満ばかり述べてしまったが、それでも本作は面白いアクション大作に仕上がっていると思う。ただ、私には物足りない出来であっただけだ。ファンも興味ある人も劇場に足を運ぶべきである。勿論、良い点もある。自分や仲間たちを「消耗品」と言いつつも、バーニーが誰よりも仲間を大切に思う気持ちに溢れているかをガルゴとに短い会話のやり取りで表現したシーンが印象的だ。テリー・クルーズの目立った活躍が見られなかったのは残念極まりないが、バーニーの幸運の指輪に命を救われた彼は果報者である。いつか撮られるであろう「4」の到来を待ちわびるばかりだ。 
 
posted by ぎゅんた at 01:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする