2014年07月28日

映画感想「人生はマラソンだ!」 ♪ シチューには竿を入れろ ♪


まとめ
・名作ヒューマン・コメディー
・人種差別ネタとゲイネタを含むオランダ映画(オランダ語)


1500メートルすら走れない持久走劣等生の私にとってマラソンは無謀行為である。走り続けられると思えない=諦めてしまうから、根性がないのである。加えて、気管支の機能が元々弱いことと左足首に故障がある。ランニングやジョギングができる人を羨ましく思うのである。

この映画は、自堕落オヤジら四人の頑張りサクセスストーリーである。一分でも走れば息が上がってぶっ倒れるかゲロを吐くほど中年メタボオヤジどもだが、加えて、揃いも揃って自分に甘いだらしの無い種のダメダメオヤジどもである。そして、この4人だけでなく、周りの人間もどこかオカシイ。本作は、オランダにはマトモな人間は少ないのか?と観客を心配にさせる始まりである。

主人公であるオヤジどもは仕事を人任せにしてダベり続け下品な会話をして人種差別を隠そうともしない有様だ。オランダではごく自然な光景なのか、それとも、この登場人物らの程度が低いことを表す表現なのか?。
どうしてそんなにカードゲームが好きなのだ。もちろん、酒とタバコは大好物。

こんなオヤジたちがマラソンを通じて少しづつ魅力的な人間になっていき、映画はクライマックスを迎えるつくりである。オヤジたちを応援し、その結果に共に喜びあえる仕様になっている。多くの邦画よろしく「さあここで泣け」的なあざとい演出はないのでボロ泣きする映画ではないし派手さもない。静かに感動できるタイプの、心が暖かくなる映画である。

この映画をみて強く感じたのは、中年にもなるともう生活習慣も生活態度も、修正することがフルマラソンを完走するのと同様、とてつもなく難しいことであるということだ。下準備と練習と根性、メンター、そして仲間がいなければとても不可能なほどの困難なのだ。けれども、すべてが揃えば、きっと達成できる。人間はいつになっても変わることができるチャンスがある。この映画からは、そうした人生訓を感じ取ることができた。青年〜中年男性諸氏であれば、思い当たる「あるあるネタ」を色々と発見できることだろう。

そして、人が目標に向かって頑張る姿は、第三者から純粋な協力や祝福を受けるということ。一心不乱な頑張りは人間の心を打つ。とてもラディカルな感情だが、これほど確かで暖かく美しいものはない。スポーツ大会で選手らが力を出し切る姿に強い感動を受けるのも同じである。それは、ときに人を変えてしまうほど強い影響力がありもするのだ。

お下品なネタが散見する作品だが、オランダだからと思って差し支えあるまい。
ヒューマン・コメディーの好きな人は観ておくべきである。

原題は「De Marathon
鑑賞すれば分かると思うが、この邦題はミスマッチだろう。
 
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2014年07月24日

直列4気筒ターボのマスタングだと?

mustang.jpg

アイデンティティの崩壊の始まりか
次期フォード・マスタングに4気筒モデルがラインナップされることに驚きを禁じ得ない。無論、アメリカン・マッスルのアイデンティティたるOHVのV8エンジンを搭載したモデルは凛然と存在しているのだけれども、まさか直4エンジン搭載のマスタングが出てくるとは。フォードだけに、マツダのMZR 2.3 DISI ターボを流用したものだろうが、それをエコ・ブーストだのと言われても。欧州生まれの「ダウンサイジング・ターボ」の趨勢がアメリカ人にも浸透して出さざるを得なくなったのだろうか。アメリカ人ならそんなものは「エコ?低燃費?HAHAHAうるせえんだよ分かってんだよ」と跳ね除けて欲しかったと思う私はダウンサイジング・ターボが嫌いである。大排気量NAエンジンこそ正義であり至高である。V8のOHVのエンジンを載せた車を崇拝し続けるアメリカ人はアホで馬鹿かもしれないが、その精神は格好良く、羨ましい。現行のマスタングのGTモデルを試乗した時に心底そう思ったものである。

小排気量で低燃費を確保してターボでキビキビ走らせるその合理さは十分に分かるのだが、それは日本の軽自動車が昔からやっていたことの普通車バージョンに思えてならない(軽自動車がブクブク肥え太る一方だったから分かり難かっただけだ)。
低燃費の重要さとエコカーなる新たな価値観は理解できるけれども、それにかこつけて大量生産低コストで済む小型エンジンを利用しているだけに思えてしまう。由緒あるブランドがCセグメント以上の車に直列4のエンジンを載せるなど、プライドの放擲とファンに対する裏切り以外の何物でもあるまい。
低燃費だろうが時代遅れだろうが、そうとわかっていても、いつかは直6やV8エンジンを搭載する車に乗りたいと願うクルマ好きのために、無駄だらけだがロマンのある、憧憬の車を残しておいてもらいたい。例えば、直4のBMW3erに乗るなんて罰ゲームにしか思えないのだが、エンジン屋のBMWがそんなものを出してくるのは、単に売れるからだろう。BMWブランドの安売りにしか思えないし、この一方で高い金を払ってでも拘って購入してきた従来のオーナーは失望しているに違いない。直4は、所詮は大衆車の最高峰クラスのエンジンに過ぎないのである。BMWの3erなど本国ではタクシーに用いられる大衆車だから直4でも変ではないという意見もあろうが、確かにそれは正しいだろうけれども、しかし、日本におけるBMWといえば「世界に冠たるシルキー・シックス」が共通認識であり、大衆車ではないクルマと考えるのが普通だろう。シルキーシックスなんて知らないけれどBMWに乗りたい!と考える人が直4を搭載したBMWに乗るのだろうし、実際にそうした新種のオーナーが多いのだろう。
BMWからすれば6er以上のオーナー以外の動向など歯牙にもかけていないだろうから、下位クラスのクルマは売れて稼げれば問題なしと考えているだけかもしれない。会社は株主のためのものだからである。だが、素直に売れている時はいいが、この実はタコが己の足を食べるようなブランドの安売りでしかなく、将来的に「ブランド力の低下と迷走」という手痛い形で返ってくるのではないかと思われる。

どうもBMWにケチをつけてしまった内容で恐縮だが、直4モデルの拡充を推し始めているのは別にBMWに限った話ではない。エコだCO2削減だと名目上だけは騒ぎ立てて環境に優しいメーカーのふりをして製造過程でCO2を出しまくって「低燃費モデル」を出し続けるメーカーだらけである。そのうち直4ターボのベンツSクラスが出てくるかもしれない。高い金を払って直4ターボのフラッグシップに乗るなど惨め以外のなんであろう。

だからこそアメリカンマッスルカーたるマスタングは「エコ?低燃費?HAHAHA うるせえんだよ分かってんだよ」の精神の元、従来通りのV8モデルと廉価版のV6モデルとであって欲しかった。そもそも直4エンジン載せてもエンジンルームがすっかすかで、ボンネットを開けたアメリカ人は卒倒するほど激しい虚無感に襲われるのではないかと心配だ。頑迷固陋とした私の余計な心配はよそに、直4ターボで軽くなった分、案外にV6搭載モデルと遜色のない走りだったりするのかもしれないけれども、どうなることやら。直4を積んだ新型マスタング、海外カーメディアがどう評価するのか気になるところだ。

posted by ぎゅんた at 22:23| Comment(4) | TrackBack(0) | クルマ(なんでも) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月23日

映画感想「ダイバージェント」 教会に着いたら話すわ



全米NO1ヒットの話題作!「異端者よいまこそ覚醒せよ!」
文明崩壊後の未来のお話とくればそりゃジストピアなストーリーです。
上映時間155分の超大作っぽいしこりゃ観にいくしかねえぜ!!


結果
真顔.jpg


設定は美味しいのに、ずいぶんと散漫な内容になってしまっている映画、といったところ。
これは「ツッコミどころ満載であるものの、突っ込んだところで別に面白い笑いが生まれるわけでもない(笑い飛ばしてカタルシスが得られるわけではない)映画」と同義である。原作は有名な海外ラノベ小説らしいが、原作厨の多くは失望する結果に終わっただろう。一方、原作を知らずに観た人は純粋に楽しめるかといえば、そうでもなさそうだ。主人公の男女ともに魅力がサッパリ感じられないのも辛い。

性格診断テストで五つの共同体(faction)に分けられる社会…なのだが、AMITY(平和)とCANDOR(高潔)はストーリーに1%ほどしか関与していない。残りの99%をABNEGATION(無欲)とERUDITE(博学)とDAUNTLESS(勇敢)の三つが占める。このうち主人公らがいるのはDAUNTLESSだが、勇敢というより無頼者か脳筋である。こんな連中が警察・軍事を担っているなど悪夢でしかない。娯楽映画に社会風刺を織り込むのはありふれた手法であるから、これは現実世界の武力組織に対するブラックジョークかもしれない。

結局のところ、どの派閥にも属しない「ダイバージェント(異端者)」が、具体的にどのような人種であるのかはさっぱり分からない。派閥を乱す不穏因子だから即刻ブチ殺せ!と敵視されている存在であることは分かるのだが、なにか特別な能力があるとか、第六の派閥を形成しているとか、そんな描写は無い。しかしホームレスのような無派閥の集団もいる。ダイバージェントはこの無派閥に属するのかと思いきや、全くそんなことはない。無派閥に属することを恐怖している描写はある。そもそも無派閥がいる時点で社会を五つの派閥に分けたシステムが半分壊れている気がしないでもないが、気にしても仕方が無い。この映画は脳筋が主役だからである。

そもそも「異端者」についておぼろげに分かってくるのは物語後半である。そして、分かったところでなにか凄い興奮がもたらされるわけではない。というか、正直よく分からない。女主人公がダイバージェントであることは明らかだが、特別な能力があるかといわれれば悪運が強いことと、精神洗脳薬(適当)のコントロールを受けないで済むこと、恐怖を感じると覚醒する(と診断された)ところぐらいしか思いつかない。どこが、即時抹殺されるほど危険な存在なのだろうか。薬で支配できないからだろうか。え、まさかそんな単純な理由で…?ERUDITEがABNEGATIONの政治に具体的にどのような不満を抱いて政権転覆を狙ったのかは特に説明が無い。ただ他の派閥をコントロール化におきたいが為の行動だったかのようにしか考えられないが、それ単なる独裁じゃないの。どこが博学やねん。そんな陳腐な展開でホワイトカラーの横暴を描きたかったのだろうか。昔を思いださぁフハハと銃をぶっ放すカーチャン同様、頭大丈夫か。

他にも謎というかツッコミどころが沢山あるのだけれども、お分かりのように、突っ込んだところで快楽的なメリットがない。こりゃもう映画館に足を運んで下さいとしかいえない。夏休みの時期ですが、世間は思い出のマニーやゴジラに殺到しているでしょうからゆったりと鑑賞できるでしょう。字幕は林完治さんです。

しかしこんなヘボな映画が、全米NO1メガヒットだなんて信じられない。
  
posted by ぎゅんた at 23:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月14日

映画感想「それいけ!アンパンマン りんごぼうやとみんなの願い」〜副題にある「みんな」の指すべき内容を答えよ


まとめ
・凡作
・海を一望できる丘に生徒を連れてきて、すわ写生授業と思わせておきながら「みなさーん、きょうのテーマは『ふるさと』ですよ〜」と言い放つみみ先生のメンタリティ(確かに海は生命の故郷かもしれんが…)


優れた子ども向け作品は大人にとっても優れた作品である。
過去にも記事にしたが、勇気の花がひらくときと命の星のドーリィがまさにそれであった。劇場版アンパンマンは、子ども向けアニメーションでありながら道徳的なメッセージに溢れた心温まる作品である。劇場版クレヨンしんちゃんが大人も楽しめるエンターテイメントであるのと同じ路線と言えよう。

本作のテーマは「ふるさと」だという。ただ、ちょっとボヤけてしまっている印象を受けた。また、子どもは向け作品であることからツッコミは野暮なことと分かっているが、腑に落ちない設定も見られる。

格好いいヒーローに憧れるアップルランドのりんごぼうやは、嵐に遭って海に落ちて梅干しになっているところをアンパンマンに助けられる。アップルランドは、魔女マジョーラによりりんごの木がダメになってしまい、元どおりにしようと仲間が土まみれで努力していた。アップルランドには元来、どこでもすぐに楽々にりんごの木に成長する魔法の種が使用されていたが、りんごの木がダメにされてその種もなくなったのだという。それで、アップルランドの仲間たちは泥にまみれ汗水垂らしてりんごの木を一から育てているのだった。りんごぼうやは、そんな苦労はダサい格好悪いからと、世界一大きな実をつけるりんごの木の魔法の種をとってきて問題解決する格好いいヒーローにならんとアップルランドを旅立っていたのだった。

こんなあらすじであるのだが、まず、アップルランドのりんごの木がマジョーラによってメタメタにされている描写がない(予告ムービーだとあるのだが)。物語の流れから想像するしかない。おそらく、その時の惨状をりんごぼうやは知っているはずだが、マジョーラに対して復讐心を持っているわけではなかったりする。また、泥まみれになってりんごの木を育てるのが嫌で魔法の種を探しに飛び出してきているはずだが、ばいきんまんのメカの舌に魔法の種を投げつけていたりする。おまえそれアップルランドでなぜ使わなかったのか。世界一大きいりんごの実がならないと見栄が張れないから使ったのか。その辺はよくわからない。物語のオチに必要だから使ったにすぎないのではないのか。悪役マジョーラも、ただりんごの木を毒リンゴに切り替える嫌がらせキャラの域を出ない(目的が謎)のもちょっと。勧善懲悪が基本で、悪役が暴れる理由などないのが子ども向け作品かもしれないが…ひょっとして説明描写があったのかもしれないが記憶にない。

そのマジョーラにしても、最初は物理攻撃がまったく通じないが、輝くりんごの光を浴びたあと説明もなく当然のように物理攻撃が効くようになるのもちょっと。物理攻撃が効くようになったのなら、ばいきんまんに一発ぐらいどついて欲しかったところも不満。劇場版のばいきんまんは一時的に共闘することのある悪役といえど矜恃あるキャラクターだからである。最終的にアップルランドは蘇るわけで、りんごぼうやはふるさとに尽力したことになるが、「ふるさとがテーマです」というにはどうも印象が弱い。むしろヒーローは、ただ綺麗で格好いいことを指すのではないのだというメッセージの方が強く感じる。弱くなっても自分の顔を差し出したり他人に尽くし、敵に立ち向かうアンパンマンや、体を張ってりんごの幼木を守るりんごぼうやの姿をみてそれを感じて欲しいとする製作者の想いが強く伝わってくるからである。

とはいえ、子どもはなんの迷いもなく楽しめる映画であるから問題はない。
話の展開もテンプレ通りで道徳エッセンスがあるので安心無難路線。
イチャモンをつけたがる小汚いおっさんにはちょっと綺麗すぎた印象。

なお、カバオくんは目立った活躍がない模様。

posted by ぎゅんた at 01:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月13日

社会が豊かになるには

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まとめ
・払いたくて仕方のない税金システムを渇望
・国が安楽死(尊厳死を認め、安楽死(尊厳死)施設が稼働すれば社会は明るくなる

10%前提で8%にまでなった消費税
様々なところから搾取しようとするクソな税金(特に自動車関連)
破綻済みでゾンビの体と化している国民年金
なぜか外国人に支給される生活保護
日本人の顔をして社会に潜伏している売国不穏因子
さらに現代の生活必需品であろう携帯電話にまで税金を課されようとしている
移民政策を掲げる政治家たち
少子超高齢化社会


パッと思いつく社会に対する憂い事はこんなところだ。

よくもまあ日本社会にモラルハザードが起こって社会が崩壊せぬものだと関心することしきりである。他国と比べれば、あいもかわらず世の中は平和で恵まれた国である。テレビをつければ面の皮の厚そうな連中が、どうでもいいくだらないことを真面目に深刻そうにコメントし、画面端にワイプ表示されている。どうでもいいくだらないことを真面目に深刻そうにコメントできるほど安穏としか社会である、ともいえる。…が、我々は政府やマスコミに飼い殺しにされている気がしてならないと、そう感じている国民は多いだろう。けれども、実際に武器を手に取り立ち上がろうとまで憤る人は殆どいない。市役所を取り囲んで声をあげているのは職業左翼の人たちである。不満があろうとも黙ってお上に従い仕事に勤しみ慎ましく生活することを美徳とする国民性が窺い知れる。「和を以って貴しと為す」の精神がDNAに刻み込まれているとしか思えない。狭い島国なので、性質が厚顔無恥でもなければとても生きていけない実情があるのである。

日本社会は崩壊せずとも、国は斜陽に入っている。いまどきこれを否定する人はおるまい。国力が低下しているのである。その原因は日本企業の総力の衰えと少子高齢化による人材の枯渇が原因である。日本企業の衰えは、(企業の)納税への拒否感と技術流出に原因があり、更に、その状況で望ましい有望な人材が集まらなくなっていることと職人・ベテランの引退による減少が追い打ちをかけている。日本は資源の乏しい自然豊かな島国で、人材こそを資源とする国であることはいうまでもない。

企業が納税に対して激しい拒否感を示すことは、あまり遡上にあげられることはないようだが、深刻な社会問題である。そもそも国民が税金を払いたくないと考えているのに、企業が率先して税金を払いたがる訳がない。最近ではAmazonが入植国に税金を収めていないことが取り沙汰された。合法的に税金を収めないか、法の隙間を突いて税金を最小限に抑えることが企業努力とみなされる趨勢である。これは、経営者であればだれしも、なるべく税金を払わないで済むことを第一に考えるからに他ならない。税金を払いたいと考える者などいないのである。なぜだろう?などと考えるまでもない。自らの納めた税金が納得の行く運用をされていないと感じるからである。納税は義務であるから渋々に、深く考えると頭痛のタネになるから目を瞑っている人が大半だろう。

税金についてフラットに考えると、高額納税者は神様仏様に等しい存在であると認識すべきである。その高額な納税こそが多くの民を支える慈悲となるからである。国民の殆どは意識もしていないが高額納税者の多大なる恩恵に助けられているのである。単純に、お金を稼げる人やお金を循環させられる人は善い人なのだ。納税や経済面で社会に多大なる恩恵をもたらしてくれる存在だからである。少なくとも高額納税者は万人に尊敬される人材であろう。昔から現代に至るも、金持ちは悪人像としてステレオタイプに描かれる。金持ちは鼻持ちならないやつと見做されるわけだが、これは悲しく非礼でもったいないことだ。実態は逆で、金持ちでないもののほうが生活に余裕がないことを原因とした愚劣で醜悪な人物(程度の低い人物)であることが殆どである。清貧とは理想論に過ぎない。蔑まれる金持ちは、稼ぎ方に問題があった者に限られる。

話がそれたが、要は、多額の税金を収めてもさっぱりメリットがないことが問題なのである。高額納税者は国民から尊敬を受けるどころか、感謝のひとつもされない。それどころか「悪どい事をして稼いだ銭なんだから、もっと多く税金を納めるのが当然だ」などと評価されることすらある。特に貧困層からそう評価される。高額納税者は偉いから讃えよとする社会も歪んでいるが、高額納税者を目の敵にする社会もまた歪んでいる。多額の税金を納める立場の人間が、もっと気持ちよく納税できるような社会であって欲しいしと思うし、納める税金が累進課税であるなら、納めた税金に累進して社会メリットがもたらされて然るべきだろう。みんなが競うように税金を収めたくなるような税制にしたほうが豊かで楽しい社会になるはずだ。民主主義で資本主義なのだから、皆が気持ちよく納税できるシステムが望まれる。これは夢想論かもしれないけれども、私はそう考える。心が貧しい時代だから我々は対策しなくてはならないと社会学者が騒いで数十年経った。それで、なにか変わったのだろうか?「古き良き時代だった」昭和の特定の時代の特定の舞台をテイストにした回顧主義が幅をきかせただけだろう。少なくとも、貧しい時代の方が心が豊かだったなんて、それは正解ではない。人生を楽しむには自身に余裕が不可欠である。


有望な人材が少ないこと。これは、単純なところ母数が多ければ優秀な個体の総数が増加するので、少子化は直結して不利に働く。中国やインドの台頭は、母数の大きさから発生する精鋭の多さによるものである。また、人口の多い社会は、それだけ潜在的な経済の伸び代が大きく永続的になる。日本は和の精神を大切にする横並び村社会で山ばかりの狭い島国あるから、単純な人口の増加は環境抵抗になるから望ましくないとも考えられるが、しかし、人口の減少は如実に国力に響いてしまう。少子高齢化は将来の先細りを意味するから早急に手をつけなくてはならない。いま早急に手をつけたところで向こう十数年は若年層は薄いままであるが、その層を支えるための若年層を用意しておかなくてはならない。

昨今、左翼思想家がことさらに移民政策を訴えているが、その甘言にのれば、終戦後の在日の例と同じ禍根を将来に残すことになる。歴史の主人公である人間自体は、過去も現在も未来もその本質はなにも変わらない。歴史に学ばなくはならない。そもそも左翼思想家らが大好きな「欧米」で移民政策がことごとく大失敗に陥っているが、なぜそのことは口にしないのか。近い将来におこりうる朝鮮半島有事にて発生する難民を受け折れるための下準備ではないかと勘ぐってしまう。いずれにせよ、移民政策で少子化の解消は起こり得ない。きて欲しい移民は人格的・能力的に優れた日本国の為になる人材であって犯罪者でもその予備軍ではない。移民政策は、経済規模の維持には多少有効かもしれないが活性化には有効ではない。将来的なデメリットが多すぎるし、国民感情としても望まれる政策ではない。海外の優秀な人材は、そもそも自国に留まるか渡米するかのどちらかであって、日本へはこないだろう(メリットがないと理解しているから)。観光にはくるだろうが。

若者が将来に不安を抱かない社会であれば、少子化が進行することはないのではないかと思う。将来に希望が抱けず、不安が払拭しきれないと、人は貯蓄に走り支出を抑えようとするだろう。そうなると、経済活動は停滞し、不景気になる。不景気になれば給料が下がり雇用が減る。結婚も子育てもお金がなくてできない。将来に不安がある上にお金がない。現代日本の少子化の本体はこれだろう。年金や健康保険を払うだけで精一杯なのだ。ワーキングプアで未来ある若者が生活保護に転落するケースも目立つ。生活保護が社会の(最低限の文化的な生活のための)セーフティであったのは過去の話で、一種の貴族階級であるとまことしやかに論じらることがあるが、私も同感である。それでも、生活が保証されたことで彼らが子どもを産み育ててくれるのなら良いことかもしれない。確かにこの層の人たちは子どもを産んでくれるが、しかし、あえて酷いことを述べるが、生活保護を受給する人々の子どもが将来的に社会的に貢献する人物になり得るものだろうか。私はその疑問を払拭できない。差別発言といえばその通りだが、教育にはお金がかかるし、環境が大切であることは自明だからである。子どもは易く朱に交わって赤くなり、易く低きに流れる。

納税が重負担になるほど若者にはお金がなく、どれだけ税金を課しても財政赤字なほど国にはお金がない。誰も税金は収めたいと考えず、将来の「もしも」を考えると財布の紐を締めることしかできない。

私はふと、国が安楽死(尊厳死)を認め、安楽死(尊厳死)施設を稼働させれば今の日本に多大なメリットがあるのではないかと考えるのである。Q.O.Lが著しく低下した状態にある寝たきりの人や、回復の望みのない延命治療を受け続けている人たちの、少なくとも一部には恩恵になるのではないか。本人には生きる意思がないのに、その意思を無視する形で生かされている場合が多いのではないか。我々が考えているほど、「もしも」の状態になったあとの延命を望む人は多くないのではないか。周囲に迷惑をかけて生きながらえるならば、潔く死を選びたい人もいるだろう。自分が認知症になって社会のお荷物になるなら、死を選びたいと考えているのは私だけではあるまい。自殺はしたくないと考えているだけである。本人が尊厳死を望むことが自殺とどう違うのかについては議論の余地があるが、誰も口にしないだけで、安楽死(尊厳死)は、生きる我々に与えられるべき人生の選択肢のひとつである。もし安楽死(尊厳死)施設が稼働すれば、最初は戸惑いや混乱があってもすぐに受けいられらることになるだろう。日本人の死生観からいって、拒否反応はほとんどないはずである。そして、医療負担や介護負担の軽減は、社会に多大な即時的メリットをもたらすからである。いざという時にキチンと死ねることが確信できていることも、将来に対する不安の払拭に不可欠なのである。
 

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posted by ぎゅんた at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常茶飯(ちゃめし)ごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月11日

映画感想「オール・ユー・ニード・イズ・キル」 ダイジェストっぽい


まとめ
アクション映画好きは観ておこう


原作はライトノベル「All You Need Is Kill(桜坂洋)」である。
確か10年以上前の作品なので「何をいまさらコレを…」と思った人は多いだろう。知っている人は知っている作品であるから、その実写化の報を聞いて嬉しさと期待が、そして一抹の寂しさを抱いたに違いない。ネタ不足なのか本作の満足のいく実写化の算段がついたのか定かではない。

設定自体は、おそらくゲームが好きな人なら誰しもが考え付きそうなものだ。特にRPGは、たとえプレイヤーが死んでもよみがえって再チャレンジができる。試行錯誤とスキルアップでいつかはボスを倒せるようになっている。リスタート&トライである。基本的にはプレイヤーのスペックは引き継がれるので、単純に、どんどん強くなっていけるわけだ。この「仕組み」が現実に活かされるなら、と誰しも考え付くだろう。この設定をどこまで美味しく活かせるかは製作者次第である。幸運だったのは、「All You Need Is Kill」はとても読みやすく面白かったことだ。「死んでも蘇ってまた挑戦できる」これは誰しもが考え付く設定かもしれないが、誰しもが桜坂氏のような読者を魅了するストーリーを生み出せやしない。

さて本作「オール・ユー・ニード・イズ・キル(原題:Edge of Tomorrow)」は、All You Need Is Killを原作としたアクション映画である。実写化とはいえ、原作を忠実に再現したものではない。原作から変更されている点も多い。原作を知っている人からすると賛否の分かれるところだろうが、映画として考えるとこれでよい、というかこうするしかないのではないかと思うのである。原作を忠実に再現するには尺が足りない。けれども、素晴らしいアクション映画になることは確信できたのだろう。映画の後半は、駆け足と幸運ラッシュ展開になって勢いが失速してしまっているものの、この映画のシナリオ構成はよくできているのではないかと思う。酒を飲みながら脊髄反射で書き上げて出来る一週間後には内容が忘却の彼方となるC級アクション映画のそれとは作りこみが雲泥の差である。地上波の放送を含めて、長く愛される映画になるのではないか。

不満に思うのは、まず、万人向け映画にするために仕方の無いことかもしれないが、人の死や戦闘があまりにも綺麗すぎるところでる。映画「スターシップ・トゥルーパーズ」のようなありのままのゴア表現をしろというわけではないが、主人公を含む人類側の「死」の描写が軽く薄っぺらすぎるて浮いてしまっている。人類がギタイの侵略により押され滅亡の危機にある割には、虫けらのように殺される人類の描写が無いし、あっても血が噴出す痛々しい描写がない。私のように歪んだ種の人間には、これは大きな不満だ。凄惨な描写を映さないようにしているだけかもしれないが、不自然すぎてしらけてしまう。

次に、リタがサッパリ強そうに見えなかったことである。「戦場の女神」と周囲に呼ばれて特別扱いされているほど強く見えないのだ。巨大な戦斧を振り回してギタイどもをギッタギタノメッタメタにしてくれるのかと思いきや、さして役にたちそうもないナマクラ・ブレードを持っていてしかも殺されちゃってたりする。強そうなお姿が見られるのは模擬実践訓練場だけというのは困る。ケツアゴ化させるぐらいなら戦斧を振り回すなり、せめて原作どおりの獅子奮迅の鬼神ぷりをみせてもらいたかった。プロドライバーのように車を運転したり当たり前のようにヘリを操縦できるっぽいのはご愛嬌。

その他、気になったのは
・パイルバンカーのロマン成分の欠如
・輸送機を撃墜しまくっていた敵サイドからの流れ弾(砲?)は、あれは何なのか。どこから飛んできていたのか。ギタイが空に向けて屁を放っていたのか?
・タイムループについて研究している(という名目で答えを知っている)変態科学者が都合よく登場する親切っぷり
・あまつさえ彼が開発した重要グッズは将軍のオフィスの金庫の中にあります

突っ込みどころというか腑に落ちない点も散見しているのだが、特別に目くじらを立てることのものではあるまい。これは娯楽アクション大作なのである。製作者側もその辺はよく理解しているだろう。あまり詰め込みすぎてもヨクナイと判断したに違いない。後半が駆け足展開で、どことなくダイジェスト版(劇場版総集編)っぽい気がしないでも無いが、気軽に楽しめる良作アクション映画であるので、気になっている方は是非とも劇場の大画面でご観賞ください。

そのうち日本原作を錦の御旗にアニメ化されそうな気がする。
映画の続編、ゲーム化は間違いないところだろう。 
 
posted by ぎゅんた at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月07日

DeadSpace3 CO-OPのススメ

Deadspace3_coop.jpg
デッドスペース3はガチのオンラインゲー仕様だった!

そもそもがサバイバルホラーをテーマにしたシングルプレイ専用のタイトルであったため、オンラインで遊ぶタイトルでも遊ぶべきタイトルでもない、そんな印象が強かった(「2」のマルチプレイが散々な評価だったのもある)。
なので、「3」でオンラインでの強力プレイが実装されると知っても心躍ることは無かった。大多数のDSファンはそう思っていたのではないか。デッドスペースにオンラインプレイなど邪道!と考えたわけである。オンラインCo-opをプレイせぬままシングルでクリアして、その結果、物足りなさを感じ「DS3はイマイチ」と評価したわけである。


「DS3はイマイチ」
それは、正しい意見なのだけれども、あくまでソロで遊んだ場合に限った感想だ。
面倒くさがらずにオンラインCo-opで遊んでみると、また違った、好意的な感想を抱くことになるだろう。

オンラインCo-opを遊んで得られた私なりの感想や注意を書いておきたい。


Co-opありきデザイン
DS3はオンラインCo-opを前提に作り上げられている。
遅い来る多数の敵やインベントリを圧迫しかねないほど出てくる回復アイテム、ステイシス、キネシスを用いて状況打破するパズル要素である。
まず、多数の敵だが、Co-opであっても、特別に敵の出現数に変化は無い。シングルプレイでは四方から襲い掛かられるストレスは(特に難易度:インポッシブルでは)甚大なものであったが、Co-opであればお互いに背中をパートナーに預けて戦うこと出来ることで解消されている。これは単にストレスの軽減を意味するだけでなく、助け合いながら窮地を乗り切るタスクともなる。背中を預けて戦える安心感と共闘する連帯感は、オンラインプレイでしか得られない特別な昂揚をもたらしてくれる。プレイヤーがうんざりしているのに遠慮なく襲い掛かってくるネクロモーフとの集団戦も、見知らぬプレイヤーがいることで、カバーしつつ立ち回るよう頭を使いながら戦える緊張感のある戦闘になる。出現数に変化はないようだが、耐久力には変化がみられる。特にSuper-ネクロモーフの硬さはシングルプレイ時のそれの2.5倍ほどになるようだ。難易度がインポッシブルのときは強力プレイを活かした過剰火力をもってしても敵のラッシュに押し負ける場面がある。

インベントリを圧迫しかねないほど出てくる回復アイテム(ヘルスパック)は、これは単純に設定ミスのような気がする。出現レートを半分にしてもまだ多いかもしれない。頻繁にダメージを受けるゲームだが、それでも多すぎてサバイバルものと考えるには緊張感を削いでいることは否定できない。回復アイテムはパートナーに譲るプレイをしなさいということかもしれないが、多すぎる。

携帯する回復アイテムの配分や戦略を考慮することなく、何も考えずクイックヘルスを使用しても差し支えないゲームバランスは間違っている。Co-opでは、出現したアイテムはどちらのプレイヤーも等しく入手できるから、結果として、出現するヘルスパックは単純に倍量となる。回復アイテムがインベントリを圧迫して捨てざるを得ない状況がしばしば起こるサバイバルゲームはバランス調整が不足している。なおヘルスパック(大)はベンチで資源から作り上げるしか無い様子。混戦時に窮地に陥った際の切り札となるなので最低でも一個は携帯しておきたい。また、タングステントルクバーも数個は携帯しておこう。

デッドスペースシリーズでは、キネシスやステイシスを用いてストーリー進行上の障害物を取り除くパズル的な、アクション的な要素が設定されている。Co-opではシングルプレイに比べ若干の変更が見られる。例えば、片方のプレイヤーがキネシスでカバーを解除している隙にパートナーがスイッチを解除するといった、相互協力が無いと先に進めないデザインになっている。パートナーがギミック解除等の作業中やマーカーによる意識汚染で動けなくなっている間、迫りくる敵からパートナーを守りきらなくてはなら無い場面もある。

行動は基本的に常にツーマンセルである。離れ離れになっていると扉が開かなかったりエレベーターが動作しなかったりする(「パートナーを待っています」と表示される)。このうち、ベンチやスーツキオスクの利用には制限がないため、知らずに相手を長時間待たせてしまうことがあることには注意したい。武器の作成やスーツのアップグレード等はソロプレイ時に済ませておき、パートナーを待たせないよう配慮したい。飛ばせないムービーシーンのせいでただでさえ時間を喰うのだから(ムービーシーンになったらトイレにいくとよい)。


Co-opありきだが…
なぜかチャット機能が無い。これは不便である。
ゲーム中にプライヤーがタイピングでメッセージを表示する。これは旧態依然としたスタイルであるが、流石に古臭いインターフェイスといえなくも無い。HUDを極力排除したゲームデザインであるデッドスペースシリーズとして、そのような仕様にはしたく無かったのだろう、プレイヤー間の意思疎通はボイスチャットでしか行えない。ボイスチャットが出来ないユーザーは(相手に対しては)常に無言のプレイになる。とはいえ、そのことを責められたり、ボイスチャットがないと満足に遊べないとか、面白さが激減するようなことは無い。
理想的にはお互いがボイスチャットでコミュニケーションをとりながら遊ぶスタイルとなるだろうが、慣れない内はボイスチャットOFFでプレイすればよかろう。見知らぬ相手とのボイスチャットは敷居が高いからである。


まとめ
デッドスペース3は「見知らぬ相手との強力プレイをお手軽にお気軽に」が優先して作られているので、オンラインCo-opで遊ぶことである。複雑なことはとくにない。どのようなものか、貴方はプレイしてすぐに理解できるはずだ。
posted by ぎゅんた at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 洋ゲー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

映画感想「ラストミッション」(原題は「3 Days to Kill」)おフランスざます


まとめ
・バランスよくまとまった良質アクション映画


(家族に事情を話せない種類の)仕事に生きる男の家庭は崩壊寸前、というのは、確かにその通りであって、普遍的なテーマである。家庭よりも仕事が大事なのね!と謗られる父親は優秀なビジネスマンであったりすればなおのこと彼の苦悩がしのばれるというもの。もっとも、家庭のことなどどうでもよい仕事一筋の男であればこのテーマはぼやけてしまうが、この映画はそうではないので安心して使い古された展開を楽しめるのである。

あらすじは以下のようである。
凄腕エージェントの主人公・イーサンには思春期の娘・ゾーイがいるが、幼い頃から側にいることができなかったためにその関係には大きな溝が横たわっている。仕事を引退して家族と暮らすことを考えたイーサンであったが、脳に不治の病があることを告げられる。ショックを受けるイーサンの元に、仕事の依頼がくるが、その報酬には不治の病に対する試験薬が含まれているのだった。果たしてイーサンは仕事を成功させることができるのか。そしてゾーイとの関係を回復することができるのだろうか。

終始シリアスな内容と思いきや、全然そんなことはなかった。ほのぼのした内容では決してないのだが、クスりとさせてくれる演出やキャラクターが登場する。真面目さをギリギリ保つ範囲でコメディ成分が含まれており、それがテンポの良さにつながるアクセントであり、洒脱した面白さにつながっている。

共闘するに間違いない感じで意味ありげに登場する女性エージェントが、裏方役というか、ただのお色気担当でしかないのも笑える。やはりアクション映画の顔を貼るのは渋いオジサマ(ケビン・コスナー)なのであり、美人は添え物、それで大正解。

映画の謳い文句には「世界を救えるか」とあるが、そんなスケールの大きさは全く感じさせないストーリー。残虐で凄惨なシーンも特になし。だが、別に不満は感じない。
アクションシーンは見所あるようしっかり作り込まれており、黒人家族との珍妙な人間関係があったり、どこか憎めない悪役を引きずり回したり、邦画的な親子関係の描写があったりと、結構幅広く特色あるつくりなのだが、テンポよくまとまっており退屈せずに楽しめるようになっている。このバランス感覚は見事なものではないだろうか。監督はスケールの大きい映画は苦手に違いないマックGである。字幕はなっちゃんだが気にするな。



悪役はドイツ車、こっちはフランス車なのも見逃せないポイント。フランスが舞台だものね。RCZと208GTiが格好良く走ります。
 

posted by ぎゅんた at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする