2014年06月27日

新型コペン(MT)試乗

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下を向いた球形のマフラーが特徴的

まとめ
・小さなオープンカーで快適に走りたい人向け
・速くはないしスポーツ走行を楽しむタイプのものではない


新型コペンがいよいよ発売になった。
コペンというと、軽自動車でFFのリトラクタブルハードトップのオープンカーという印象である。旧コペンには乗ったことはない。運転して気持ち良さそうだが、オープンにして乗っているオーナーが少ない印象もあった。

新型コペンは、コペンらしい、丸くファニーなフロントマスクが刷新されたかのように表情を変えた。流行のつり目でシャープなデザインである。これは賛否の別れるところだろう。軽自動車のサイズでフロントマスクをいかつくしても仕方が無いというか、ザクレロのようにも見えるために私はあまり好ましいとは思わない。来年にはフロントマスクが旧コペンのような系統のグレードが出るらしいので、新型コペンの表情が気に入らない人はそれを待つことになるだろう。

実物の新型コペンを全体的に観察すると、写真で見るよりはバランスよくまとまっている感じがする。写真写りの悪いデザインかもしれない。ただし、格好いいとは言い難いのはモヤモヤすることろ。小さなサイズで格好良いデザインに仕上げるのは難しいだろう(ましてやオープンカーである)から、ダイハツは苦悩したに違いない。特別な塗装なのだろうか、ボディは艶艶と輝いていて綺麗である。

シートに腰掛けると、なかなかタイトな空間身を置く感じがする。軽自動車なので狭いのは当たり前なのだが、オープンカーという特殊な車種であるから、これはデメリットでもなんでもない。しかし流石に軽の規格であるから、膝がハンドル周りにぶつかってしまう狭さであるのは仕方がない。これはシートを後ろに下げるなりして「当たりにくく」するしかあるまい。最近の軽はずいぶんと室内空間が広くなったとはいえ、それは新型コペンには当てはまるまい。もっとも、室内空間の広さを求める人が買うクルマでないのはいうまでもない。インテリアのデザインはシンプルである。質感は其れ相応というのかどうか判別し難いが、どことなくトヨタ車チックで、値段から判断すると少しヘボいのではないか。カーボン調の加飾が見られたあたり、このクルマが走りを意識したモデルであることがハッキリするが、新型コペンのキャラクターからするとミスマッチな気がする。私がカーボン調加飾が好きでないからかもしれない。

運転席と助手席のピラーにあるハードトップのロックを解除して、サイドブレーキ横のボタンを押していると屋根がトランスフォームしてオープンになる。走行中は開閉操作を受け付けないとのことなので、急な天候の変化(雲が晴れて強い直射日光に晒されたり、にわか雨に遭うこと)に対応し辛いことには注意が必要。日本車のリトラクタブルハードトップは、走行中に動作してはいけない決まりになっているのだろう。ソフトトップのロードスターであれば、推奨されないが、走行中でも片手でクローズドにできたものだが、これはアナログの強みというべきか。いずれにせよ曇りと小雨の多い北陸地方では気になる点だ。

クラッチを踏んだままエンジンを指導すると、タコメーターと速度計の針が振り切れるスイープが見られる。だからなんだと言われてばそれまでの演出だが、あって喜ぶオーナーが大多数だろう。エンジン音は最近の軽自動車のようで静かな印象。ちなみにMTだとアイドリングストップ機能はない。頼まれても要らないと考える私のようなオーナーは喜んでMTを選択しよう。

格好良い球形型のシフトノブを握り1速に入れて発進させる。クラッチがミートするポイントはちょうど真ん中あたりにあり、広く、クラッチも重くはないから操作は難しくない。ただトルクが太いわけではないようで、アクセルを少し煽っておかないとエンストしそうになる。すぐに慣れる程度のものであるから、MTに慣れている人は問題にならないだろう。

新品同様の個体のためかそういう設計なのか、シフト操作は重ためで変速時の手応えが強い。まだぎこちないので抵抗が強い、そんな感触である。変速時にいちいち引っかかるわけではないが、スムースとは言い難い。シフトを切る操作自体にメリハリがつけられた、人為的な味付けであるといえる。シフトレバーを動かして変速するアクションが好きな人には好まれる味付けかなと思う。グニョグニョしていて変速の手応えの薄いミッションよりもこの方が遥かに好ましい。

走り出してすぐに感じるのは、軽自動車にしては立派な乗り味である。軽自動車ということから想像していた安っぽさがない。ドッシリとしているのである。カタログをみると「剛性の高いフレーム」D-Flameがどうたらとあるから、そのためだろう。頼もしい乗り味である。

エンジンのパワーは、言葉悪くいえば所詮は軽自動車でたいしたものではない。見た目から想像されるであろう鋭い速さはないのである。太いトルクがあるわけではないから、低速時に3速から急加速しようとアクセルを踏んでも、エンジンはガタガタと悲鳴をあげる。加速したいのなら、回転数を合わせてギアを2速に叩き込んでアクセルをベタ踏みしなくてはならない。ズボラな運転は拒否られるわけである。正しいギアを選択してエンジンのパワーを引き出さなくてはギクシャクした動きになるわけで、エンジンのパワーを使いこなす操作が(CVTよりは)要求される。エンジン回転数に応じて、排気音が勇ましくなるが、これはスポーツサウンドを楽しむためのチューニングだそうである。全体的に太い音だが、これが車両のドッシリ感と合間って気持ちが良い。オープン走行時に堪能しよう。

パワーがないし速くもないとはいえ、それが新型コペンの運転の楽しみをスポイルしているかといえば、そうではあるまい。小さな車体に見合ったパワーを、正しく使いこなす楽しさがあるからである。確かに、新型コペンは速くはないが、小さなオープンカーでゆったり快適に(そして、ときには少しスポーティに)走らせるには、実にバランスよく設計されている。その分、刺激的な走りをドライバーにもたらしてくれるクルマとは言い難い。オープンで刺激的な走りを求める人は、ロータス・エリーゼやS2000、ボクスターを買うしかないだろう。車格も価格も違うじゃないか!と、それはもっともだが、そもそも軽自動車の企規格で刺激的な速さを求めるとなると、ケータハムセブン160を購入するほかにあるまい。

プライスは、CVTが179.8から、MTが181.9万円からである。
シートヒーターが標準装備でリトラクタブルハードトップであることを考えると、そう高くないのかもしれない。燃費に優れ、税負担が軽く、何より車体が小さいメリットは大きい。軽自動車でオープンで気持ちよく走ることができるのなら速さは気にしない人にはこれ以上なく訴求力が高いクルマである。


石川ダイハツ販売(株)高柳店
飛び込みにもかかわらず快く対応してくださったスタッフの皆様ありがとうございました。
 
posted by ぎゅんた at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 試乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月25日

感想「藤代さん系。(四)」拳拳服膺


ネタバレ
・これにて完結


結婚したくない人が増えていると、話題になったことがある。若者の結婚離れといえばそうだが、それはずいぶんと昔から、10年程前にはいわれていた気がする。その当時は「女性の社会進出と晩婚化が考えられる」という分析だった気がするが、最近は「結婚する必要性を感じない人が増えた」と分析しているようだ。これはもちろんタテマエで、ホンネのところは前者が「女がでしゃばるようになって男が守りたいと思うような女がいなくなった」で後者が「(結婚する)金が無い」だけである。

すまないフェミニストは帰ってくれないかと前置きをした上で。
男は愛する女を自分の手で守る(社会的に養う)ことにのみ甲斐性と矜持を感じる生き物である。だから「敷居を跨げば七人の敵あり」といえども身を晒して仕事に努め、励み、耐えるのである。成人男子が仕事に就かずいることは恥ずかしいことであるとする社会通念は、妻を養ってこそ一人前の男であると認められるからに他ならない。妻を養えるだけの能力があるかないかは、ひとりの男を客観的に判断する上でこれと無い材料になる。なので、男は働かないでいると心理的に落ち着かないし、結婚できないままでいると世間からの目が気になる生き物なのである。

現代社会は情報社会とスタイルが変化しつつあり、様々な人の意見を知ることができるようになった。そこでは、結婚しないでいることのメリットも赤裸々に語られることになった。結婚しないでいるほうがお金もかからないし思い責任もないし気楽で自由である。確かにその通りなのだが、心からそれに同意している独身男性は少ないのである。付き合いが面倒くさくとも、心煩わされる心理干渉があろうとも、自分の子をこの世に遺さず死んでいけるだろうかと常に考えている。死んでいくときは一人でも、独りは寂しいのである。

この作品の久世くんは、(年齢的に当然だが)将来の夢がどうとか結婚相手がどうとか何も考えていない。人間関係も狭く浅くといったところで、深い関係を意識的に避けているところがある。なぜそのような性格であるのかは、結局のところほとんど分からないじまいであるが、それは、本質的には不自然であるから、彼は不器用に手探り状態ながらも藤代さんとコンタクトを重ねていく。
地頭に優れ器用な彼は社会生活に破綻をきたさない範囲で対人関係を築くことはできるが、一線を越える範囲の関係は築けないし、避けていたフシがある。必要以上の干渉がない人間関係は、理想といってもいいぐらいに楽なものだ。成長が無いだけだ。

久世くんが藤代さんに自身は意識しなくとも恋慕感情を抱いていったのはなぜか。
素の相性の良さ(単純な好み、話のテンポ)に加えて、藤代さんに自分に無いものを見つけたこと、藤代さんを守りたい気持ちが湧いたからであろう。
友人の千葉くんは、久世くんが藤代さんと接触している様相を「能力的に劣る藤代さんが可哀想で仕方ない、だからかわいくて守りたくなっているだけだ」と判断する。これは酷い評価だろうか?千葉くんの性格が悪いのだろうか。

二次元で可愛らしく描かれた漫画なので分かりにくいが、藤代さんは「この世界の中では」特別に可愛いわけではない。真面目だけが取り柄の、鈍くさくて目立たない、およそ面白みにかけた女子生徒にすぎない。
性格はともかく容姿も成績の優秀な久世がなぜあんな子を?そう考える千葉くんの心情は自然なものであり、その評価も間違ってはいない。ただし、久世くんを除いての話でしかなかったのである。

友人である千葉くんに(初めて向けたであろう)感情的な怒りは、だからこそ久世くんが藤代さんに対する恋慕の感情の裏返しでもある。可哀想だから守りたいのではなく、ただ守りたいだけなのだ。嫉妬の気持ちも混じっていたであろう久世くんは、この時点から少しずつ距離をつめるようになっていく。これがものすごい不器用なのだが、そこが見所でもある。

一話から追うと、読者はこの「藤代さん系。」は、藤代さんが久世くんに振り回されながらも両思いになっていくストーリーなのだろうと考えるだろう。私もそう考えていた。だが、読み終えた今になって、この「藤代さん系。」は、実のところは久世くんの成長物語であったのだと思い至らされる。

藤代さんが久世くんを想う気持ちが全くぶれないので、物語は、結局のところふたりの両思いに着陸してしまう。これは久世くん贔屓ストーリー過ぎることを否定できないものの、それでも彼は一歩を踏み出したからこそ藤代さんと一緒に居られる結果を得たといえる。主人公が藤代さんであるから、一読すると、藤代さんが頑張って告白した結果ふたりは両想いになりましたのスタイルなので分かりづらいだけだ。だけれども、藤代さんは最初から最後まで藤代さんのままなのだ。だからこそ、久世くんが千葉くんと屋上で語り合う和解シーンやクライマックスのシーンから得られる静かな感動は、ここに文章に書き表せるほど浅薄なものではない。このような描写をサラリとやってのける作者は只者ではない。

なお、未収録の読みきり短編は収録されておらず。残念。次の単行本を待とう。


まとめ
ぎゅんたは湯木のじん先生を応援しています。

 
posted by ぎゅんた at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 湯木のじん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月23日

DEADSPACE3(Origin)日本語化 〜ユーザーが抱く不満に国境なし

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周回プレイを始めるもゲーム内容に不満があり放置していたDeadSpace3(Origin版)。

日本語化が出来ると知人から聞き、導入してみることにした。
導入は実に簡単で、この日本語化MODを作った有志には感謝と崇拝の念にたえない。
導入の簡便さと不満の無い字幕クオリティを誇る、完成度の高いMODである。

DeadSpace3のストーリーは、おぼろげながらに理解していたつもりだが、肝心の細かな点は分からずじまいであった。特に道中に散在しているテキストログやアーチファクトに記載されている情報が日本語化されているのは本当にありがたい。RIGから目前に投影されるように表示されるこれらのデータは、ビジュアル優先であって文字が小さく単純に読みづらいのだ。また、ストーリの進行上に於いては読む必要性が無いため、翻訳してまで読む気力が無かったのである。だが、道中に散在する断片的な情報を理解することは単純に謎解きとコレクター心理を満たす点で優れている。その意味で日本語化されたお陰で、取得するテキストログやアーティファクトの情報にアクセスするのが単純に楽しくなった。本当にありがたいことだ。

DeadSpace3は、一度クリアするとゲームモードに「クラシック」がアンロックされる。
このゲームモードは、DeadSpace3のメインフィーチャーであるthe weapon crafting(ベンチでパーツを組み合わせて様々な武器/工具を作ることが可能)に制限がかかる。
武器/工具を各パーツに分解できず、また、パーツを組み合わせて武器/工具を作ることも出来ない。武器/工具は、取得した資源から作るしかないし、その種類も過去のDeadSpaceシリーズに登場したものである。
私はプラズマカッターが好きなので、日本語化しての初回プレイということでのモードで遊び始めることにした。

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DeadSpace3の総評については、以前に記事にしたとおりであるが、再びプレイしていると、やはりその評価は揺らがず、覆されることは無い。日本語化の恩恵は大きいのだけれど、この作品を「デッドスペースの三作目」ととらえると、擁護できない、否定できない不満を抱くわけである。

海外のフォーラムをみると、DeadSpace3はユーザーからあまり高い評価は得られていないようだ。
投稿者らの不満点の多くは共通していて、

・1と2は素晴らしいがとにかく3はダメ(sucks)
・ResidentEvilと同じでもはやサバイバル「ホラー」ではない
・なぜオープンエリアにしたのか
・誰もオンラインCo-opなど望んでいない
・敵に人間を登場させられても
・小額取引のDLCがムカつくぜ
EAだから
・アクション偏重になりすぎ
・意味もなく派手すぎ
・融通の利かないセーブシステム
・相手にしなくてはならない敵の数が多すぎ


といったところである。

私個人が強く抱いていた、アイザックとロバートの痴話喧嘩については不満点に挙げられていないようで意外であった。外人にとっては一人の女性を巡って口論するのはごく普通の日常作法なのかもしれない。確かに、映画でも男同士が口論や衝突するシーンをしばしば目にする。
むしろエリーは要らないとかふぁっくとか整形しすぎとかBoob!とか、妙にエリーに冷たいコメントがみられた。

否定するユーザーだけでなく、当然、好意的に捕らえているユーザーも勿論いる。ただ、全体として多くのユーザーは3に対しては残念な印象を抱いているようだ。そして、否定的な立場にいるユーザーはおしなべて1と2を高く評価している点で共通している。保守的で筋金入りのデッドスペースファンで、感情的といえる。私もこれに属する。1の雰囲気に圧倒されて、2でアクション寄りになりアイザックが喋り捲るようになったことに違和感を覚えたものの、単純にゲームとして遊ぶ分には「まだ」面白く、新鮮であったため、2を高く評価した…だが、3は残念なことに2の延長線上にあり、これでは不十分だったわけだ。

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私なりの不満を述べていくと
・崖のぼり/崖くだりはテンポの悪い、つまらないアクションパートでしかない
・メインの舞台が「Space」ではない極寒の惑星になってしまってはタイトル詐欺
・プラズマカッターが弱すぎて「望まない縛りプレイ」をさせられている気分になる
・サブ・ミッションで訪れる場所のレベルは殆ど使いまわしであり、且つ敵がうじゃうじゃ出てくるだけの難易度。手抜き感が酷く新鮮味に乏しい。
・universal ammo(弾薬の共通化)の為にサバイバル・ゲームの戦略性が少し失われた
といったところ。

プラズマカッターの弱体化は、なにかの間違いでないかと思えるほど。
アタッチメントで改造できるノーマル・モードならまだしも、それが許されないクラシック・モードでは本当に弱く涙目になる。サーキット・チップで強化できるとはいえ、強化しないとどうにもなら無い弱さでしかない。プラズマカッターの性能の弱体化に加えて、敵が多数で押し寄せてくる場面が多い。回避しようにも回避できないのは、自分の武器選択のミスかもしれないが、ストレスを感じるものだ。

DeadSpace3の良い点は、とにかく素晴らしく綺麗なグラフィックと、細かく作りこまれたメカ・ギミックである。Terra Nova周辺の宇宙空間や、Tau Volantisで吹雪が晴れてS.C.A.Fの基地を一望できるシーンなどは息を呑む美しさだ。ストーリーについては、なんともいえない。

weapon craft systemも試行錯誤が楽しく、これは良くできていると思う。組み合わせ次第でお馬鹿な武器を真顔で作れるシュールさは洋ゲーの長所である。資源を積極的に集めてアイテムに変換したりRIGを強化していくのもRPGテイストを感じさせてくれて楽しい。

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まとめ
きちんと作りこまれて出来ているのだけれども、「こうしてくれれば良かったのに」と不満に思う点が多く、全体像でみると残念な印象の作品。これがDeadSpace「3」でなければ、普通に、純粋に楽しめる作品であっただろうから、「3」は不憫なタイトルともいえるだろう。初代と前作がユーザーらに与えたインパクトが強すぎて、期待値を超えられなかったのである。おそらく4は作られないだろうし、私も、多くのファンも望んでいない。ResidentEvilと同じだ。

ビッグタイトルの続編は安定して売れるからこそ開発される。ゲームの本質は商業に逆転され犠牲になることがある。DeadSpace3をプレイすると、ゲームというものの、そうした商業的な側面を考えさせられるのである。
 
posted by ぎゅんた at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 洋ゲー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月22日

セカンドカーにオープンカー、新型NDロードスターに期待


MTで乗れるオープンカーを探すと、候補の数はぐっと少なくなります。それを意外に思う方もいるかもしれない。そんな方は、きっとオープンカー=スポーツカーの認識が強いからでありましょう。しかし、オープンカーは、実際には、スポーツカーではないと考えます。単純にオープンカーはサーキット走行で有利ではないからです。外国のオープンカーの中には、ハイパワーでいかにも速そうなヤツが雁首を並べていますが、スポーツカーというよりはGTカーでありまして、長距離を楽に気持ち良く速く走る設計になっております。オープンカーは気持ちよいドライブや楽しいクルマライフのためのクルマと考えればよいのです。そもそもオープンで速く走りたいならバイクに乗る方が手っ取り早くて刺激的です。バイクよりも快適で安全に、風を感じながら走りたい、そういうワガママを叶える乗り物がオープンカーであるとも言えます。

いずれにせよ、速いに越したことはないと考えても、速さを求めてオープンカーを購入しているオーナーはいないと思います。クルマの速さよりも、もっと優先すべきものがある。それが、オープンカーであれば叶うというだけです。シートが少ないとか荷物が乗らないとか直射日光で灼け死ぬとか女ウケが悪いとか、すべてを承知のうえで乗っているわけです。バイク同様、オープンカーの魅力は言葉で説明し難く、とりあえず乗ってみろとしか言えないのがもどかしい。

そんな魔性の魅力に満ち溢れたオープンカー、ハマる人はとことんハマるわけで、不肖ながら私もNC1ロードスターに乗って楽しんでいた時期があります。愚かさゆえに自損事故で廃車にして以来は、自戒も込めてオープンカーには乗っていませんが、オープンカーが好きな気持ちに変わりはありません。セカンドカーにオープンカーを所有する欲望が心の中にあります。金銭的余裕の面で実現できませんが、ならば金銭的余裕を得るために仕事を頑張ろうという気持ちになっています。

セカンドカーにオープンカーを、となると、これは趣味に突っ走らなくてはなりません。実用性の面はファーストカーに任せれば良いからです。妥協しても不満と後悔が残るでしょう。真面目に道楽のために選定せねばなりません。

私の場合は、
1.MTであること
2.60km前後の速度でのんびり走らせるのが無上に気持ち良いこと
3.小さく軽量な車体であること
4.ソフトトップであること
が優先事項/順位となります。

NC1ロードスターはこの点をかなり満たしてくれていましたが、過剰な動力性能がゆえに、スピードの魔力がオープンカーの魔性の魅力をぼやけさせていたモデルだろうと思います。あの車体に2L170馬力のエンジンは、本来のロードスターのキャラクタからすればオーバースペックでしかない。それはNCの発売当初からロードスターファンから指摘されていたことです。もっとも、NC1に乗っていた頃の私は、もっとパワーがあって速ければいいのにとモアパワー求めていたものでしたが、いまになって思えば若いなあと感じいるところです。オープンで気持ちよく快適に走らせられる、その本当の素晴らしさを理解できていなかったのです。「事故って失って初めて分かる、自身の求めるオープンカー」といったところでしょうか。とりあえずNC1にのって速さに不満があるならS2000やボクスターSを購入せねばならないでしょう。

今私がオープンカーを再び所有するのであれば、いま述べたようにNCロードスターはオーバースペックだと考えているので選択に迷いがあります。ジャストスペックのオープンカーが欲しいからです。その意味から、車体と排気量が初代ロードスターのライトウェイと路線に回帰すると噂のNDロードスターに期待せずにおれません。フツーの実用エンジンでパワーがなく非力であっても、小さくて軽い車体をエンジンパワーを自在に操って走らせる。そんなライトウェイトの魅力が凝集された、世界に冠たるオープンカーとしての新型ロードスターであって欲しい、そう願っています。

posted by ぎゅんた at 00:42| Comment(0) | TrackBack(0) | クルマ(マツダ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月20日

映画感想「ノア 約束の舟」愛を運ぶね〜ファンタジー・ノア〜理解不能


その内容から、配給中止になった国があるとかとかどうたら。
話題作かどうかは知らんが、劇場の席の埋まり具合は上々。
字幕翻訳はなっちゃんです。138分。

結果
何がスペクタル感動巨編だボケ〜


私は聖書に明るくない。キリスト教もイスラム教にもユダヤ教もサッパリ分からない。だが、ノアの方舟伝説ぐらいは知っている。多くの日本人も、そうだろう。

そして、詳らかに他人に説明できるほどのハッキリした知識は持たないにしても、しかし、この映画の内容は原典のそれと異なっているのは分かるし、原理主義者(原作厨)が怒り心頭に発したというのも頷ける。宗教は、ひとまずは国家と国民の根底に横たわる共認識だからである。サウジアラビアの留学生が浅草寺の仏像を破壊したとか韓国人が仏像を盗んだとニュースに聞いて不快感を抱かぬ日本人もおるまい。同様の現象が、キリスト教を国境にする人々に、この映画を見せれば起こるだろう。そういう意味では確かに問題作かもしれない。キリスト教徒であれば、教養として知っておくべき内容が、妙に風変わりな内容にアレンジされているからである。単純に冒涜とみなす向きもあるし、なにも知らぬ人が、この映画の内容を「ノアの方舟伝説」と勘違いされかねない懸念もあるだろう。

この作品、内容が、中途半端に妙である。もし原典に忠実にすれば伝説の実写化として、あまり大きな不満も評価もなかったであろう。しかし、それはただの映像化に過ぎないともいえる。変態で有名なアロノフスキー監督は、ノアの方舟伝説をただ実写化する気持ちなど毛頭なかったに違いない。ここでは、ノアを確信犯的に狂人のように描いている。神を深く信奉する彼は本当に正しい人間であるのかどうか、観客に問いかける…そのようでいて、監督は単に「ノアなる人物は実はキ○ガイなんですよw」と伝えたいだけにも見えてしまう。観客がどうとでもなんとなくメッセージ性を感じ取れるようなつくりといおうか。

本当のところは、監督は観客がなにを感じ取ろうが、そのことに興味はなさそうに感じられる。この映画で監督がなにを伝えたいのだろうか。私は自信をもって答えることができない。

彼が、「自分なら撮れるノアの方舟伝説」を本当に撮れたのかどうかは、推測するに撮れてはおるまい。そうでなければ、ここまで中途半端な印象を与える作品いはならなかったのではないかと思うのである。

後半、舟に入り込んだカインがハムに神についてのカインの考えを話すシーンがある。ここでカインが述べることは、「悪しき堕落した人間の傲慢な」考えには違いないだのだけれども、妙に説得力ある印象的なシーンに感じられる。ストーリー的にはこのあたりのノアは神のお告げだ御心だ望みだ云々と、そりゃ敬虔な人間なのかもはしれんが第三者からはみればノアは狂信者にしか見えない状況なので尚更。
だが、それを差し引いても、カインの考えが正しく感じるのが普通ではないのだろうか。そう観客が思ってくれればいいと監督は考えたのではないのか。
このとき、私は、この映画、ひょっとしてノア以外の登場人物らがノアを殺害してカインに付く展開になるのではと考えた。つまりは、今いる人類は神に選ばれた善良なノアの子孫たちではないとする結論になるのではないかと。

そもそも神の啓示だ何だとノアが言っても、別に神が姿を見せたわけでも、言葉で語りかけてきたわけでもない。ノアが、自分がみた夢を神からの啓示だと判断したに過ぎない。確かに、天から降った水滴から芽が生えたり、埋めた種から方舟の資材とするための森が生まれたり、「堕天使」なるロハスに毒されたトランスフォーマーみたいなゴーレムたちの協力を得て巨大な方舟を建造していくあたり、神からの導き(方舟をノアに作らせようとする意思)が感じられるのだけれども、やはり神の姿も言葉もないのである。ノアの家族はノアを信じるしかない。ノアの家族にとってはノアは神様みたいな存在であったのかもしれない。

こんなことをあまり深く考える必要などないが、結局のところ、神様はメチャクチャ残酷であるとしか言えない。宗教観の違いでそう感じるのかもしれない。うまく例えられないのだが、この映画から感じる神(creater)は、「お前を信じているから好きにしろと、一見して理解ある器の大きい人物のようでいて、その実はなにも考えていない無関心極まりない上司」のようである。そんなヤツの相手などせず必死に生きようと行動するのが正しい人間だとするのなら、だれが否定できようか。

だが、結局はカインは殺される。やはり人類はノアの子孫なのである。
その後は色々あって人類は絶滅せず、また繁栄していくハッピーエンドで締められるんだけれども、モヤモヤした不満があるから中途半端な映画だった感につながっている。ハムが旅立っていった先に彼が渇望する女の子はいないはずですし、そもそもノアが善人に見えないのが原因か。こんな連中の子孫が僕たちだなんて、そりゃ原作厨は怒るだろう。


DSC_0617.jpg
これはみいたんの方舟


ところで
方舟で動物たちは保護するが、昆虫や微生物は見殺しなんでしょうか。あんな長期間、世界が水没したら相当数の種が絶滅しますが。また、植物は切り倒したり水没して腐らせても良いのでしょうか。どうも人間と動物以外の扱いが軽すぎる。西洋文化にとって森は征服すべき対象であったときくが、それも宜なるかなというもの。

ヤフェトが終始空気すぎ。

洪水から種を護るために建造された箱舟にまさかの脱出艇が。これはなんの冗談なのか。セムが急ごしらえで建造したにしても、どこにそんな資材と技術が…。都合が悪いのでノアさんに消毒されましたが。

登場人物らがブラックジーンズを履いていたり、ファッショナブルな服装だったのは画面映えしないからですかね。ノアのじいちゃんが魔法使いだったり神の地から出土する火の出る鉱石が小道具に使われていたり色々とファンタジー世界ですから、イチイチ気にしてはいけないのかもですが。大洪水でみんな洗い流されちゃったから証拠もないもんね。嗚呼「水に流す精神」の素晴らしさよ。
  
posted by ぎゅんた at 01:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月18日

本の注文はアナログに書店でのススメ


まとめ
本屋さんで注文すれば素直に入手できたりするものだ


 買い逃した本があれば、とりあえずamazonで買えないものかどうかチェックする。これはおよそ一般的な行動様式であろうと思われる。マケプレで格安で出品されていて 257+α(円)で購入が可能な場合もある。目的の本の在庫の有無と中古本の出品が確認できるのだ。
 
 正直に言って、これほどの便利さは狂気の沙汰である。10年も前には考えられなかった(慣れてしまって当たり前になっているだけだ)。きょうび、流通を制するものは巨大なモンスターになってしまった。

 そんな天下のamazon様であっても、時には在庫を切らしていてマケプレ頼りになっていることがある。古い本や流通量の少ない本、雑誌、雑誌増刊号に多い。「中古でなら」入手できるだけである。とはいえ、本の値段によってはマケプレで購入したところでコストがたいして浮かないことも多い。なにしろ 257+α(円)である。元の値段を超えてしまっていることも珍しくない。くそったれめ。俺は新品を買いたいんだ。せどり屋に金を払うのは癪だ(でも欲しい)。色々な考えが頭をよぎる瞬間である。

 記事冒頭の本は、今年一月に発売された本だが、雑誌の増刊号であった。例に漏れずマケプレでしか買えなくなっていた。出版元の内外出版のサイトからも購入できるが、合計筋学が1000円未満だと送料に600円かかるとなるとfu*kである。同時に欲しい本があれば別だったのだが、無い袖は触れぬ。さりとて本体よりも高い送料代を払う気もない。

 そこで地元の本屋で注文してみることにした。どのみち出版社には在庫があるので、時間はかかっても購入できるとふんだのである。それで買えないなら縁がなかったと思えばよろしい。そもそも送料を無視して購入したいがための、まっこと都合のいい話なのだから、それでよいのである。

 その結果、注文して4日を要したものの無事に購入できたのであった。たかだか480円の増刊号一冊であっても、本屋の流中網にお世話になれば確実に入手できるのである。日数はかかってしまうのは仕方が無いことかもしれないが、世の流通の世話になる身分なのだからちょっと待つぐらいのテンポを楽しむぐらいが本来相応であろう。いますぐ手元にこなくてはならないほど切迫した生き方をしているのなら別だが、そういう忙しい人は未読のまま既に購入しているのが当たり前だったりするものだ。

 嬉しくなった俺は6/26発売の藤代さん系。第4巻を注文して帰った。楽しみが先にあるのをゆったり待つのは気持ちの良いものである。
 
posted by ぎゅんた at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 漫画以外の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月15日

映画感想「春を背負って」 春と嘯く


結論
・凡作


山は非日常の舞台である。雄大な大自然の中で、ひとり自分と向かい合う舞台でもあり、油断すれば命を失う場所でもある。そうした特殊な舞台であるからこそ、今も昔も、一部の好事家たちを魅了し続けてたのである。山に魅せられる者たちはこれからも絶えることはない。山にはドラマがあるのだ。

山のドラマとはなんだろう。
極限状態の中でちっぽけな自分と向かい合い頂を目指す男たちのドラマ
とか
山岳救助にまつわる人間ドラマ
とかが思い浮かぶ。私は山に魅せられた男ではない(むしろ山は怖い場所なので行きたくない臆病者である)から、これぐらいしか思い浮かばない。他にもたくさんあるだろう。
少なくとも私が知っている名作としては、前者ならば神々の山嶺が、後者にがある。同様に考えておられる方も、多いだろう。

さて本作はどうかというと、これらのエッセンスは、山が舞台であるから扱われているのだが、かなり小さく中途半端である。登場人物らが一瞬の油断から滑落死したり、遭難して凍死したり二次災害を招いてしまうような悲劇はない。舞台が富山県の立山連峰であって、ヒマラヤや谷川岳じゃあるまいし、当然かもしれないのだが、死が隣にいるほどの緊迫感は一切ない。山の怖さについての描写はあるのだけれども、どこか軽い。
私は、山は怖い場所だと思っているから、実に一面的な、観光気分的な山の姿だけが切り取られている映画だなと感じた。山のシリアスさについては強調されているとはいえない。軽い。

これは人物関係でも当てはまる。とにかく主人公に理解のある人間ばかりなのである。
普通、地元を出てずっと東京で働いていた人間が突如「山小屋を継ぐ」と職を辞してきたとすれば、「なに甘い考えをしてやがる(なめてんじゃねえぞ)」と陰口を叩かれるものであろうし、腫れ物扱いや余所者扱いをされるものだ。根をおろして居を構え生業を持って生きていくには、地域のコミュニティに馴染めなければ成功できないし、また、それこそが最初の大きなハードルなのだ。主人公・亨は、皆から慕われ尊敬されていた男・勇夫の息子であるから、立場的に優遇されるとはいえ、地元の人間からみれば地元を捨てて都会に出ていた人間が、跡を継ぐことを口実に嫌になった仕事を辞めて逃げてきたと考えるだろう。しかし本作ではそんな風に亨を非難したり謗る人物の描写はない。むしろ無抵抗に協力的な二人が主人公を温かくサポートするのだ。世間から隔離されたかのような大自然の中の小さな山小屋で、気持ちの良い暖かな二人がサポートしてくれるのだ。まるで家族だ。彼らにとっては、身も心も、ここほど居心地のいい拠り所はあるまい。

跡を継ぐのか!立派だ!応援するぞ!と手放しで応援するのが情に厚い田舎の人間像だと製作者らは考えているようだが、それは理想であって、無条件に信じるのは世間知らずというものである。誰しもが田舎のしがらみにまみれた人間関係に嫌気が差すからこそ都会に出て行くのだ。とかく、貧乏人が金銭的に貧しくとも心が豊かな清貧であるとか、田舎の人間が純朴で情に厚い人たちだとされるきらいがあるものだが、しかし、そんなものは偏見にすぎない。

この作品には、製作者らのこうした理想像の押し付けが前提で撮られている感じがプンプンするのである。
亨の勤務先が数字絶対主義の証券会社(それも大都会・東京だ)で、非人間的な仕事をして厭世的になっている(「他人様お金を動かして金を儲ける賤業じゃないか」)のも、金融業に対してご年配が抱いているオーソドックスな偏見だろう。だから亨が「仕事をやめて山小屋を継ぐよ」と母に告げる瞬間に「よくぞ言った!都会でマネーゲームなんて人間のやる仕事じゃないんや!もっと自然に、ありのままに生きるんじゃ!」と的カタルシスが得られ、気持ちよく、素直に納得できるストーリー展開になるのだろう。ご年配の観客は

このような作りになっているのは、監督の年齢、この作品のターゲット層が年配であるから致し方のないところかもしれない。映画の冒頭が昭和の白黒モノクロ映画カラーがついたかのような不穏な始まりあるのも実に古臭い。

繰り返すが、この映画はご年配の観客にウケるようにつくられている。そして登場人物らには「人間らしい嫌らしさ」の描写が微塵もないのである。素直な主人公が大自然の中で気持ちの良い人たちに囲まれるハートフルなサクセスストーリーである。

ケチをつけても仕方が無いが、私にはどうにも楽観的すぎる気がしてならなかった。この作品はコメディ映画ではない。亨にしても、父との過去の確執や父への敬愛の念の描写がサッパリ無いので、勇夫の死をどこまで深刻に受け止めているのか推し量ることが難しい。冒頭の「20年間」にしても、勇夫と亨の親子の絆の大きさを知らしめるには情報量がなさすぎる。むしろ亨は「冬の山なんぞこりごりだ」と都会に出て行ったのではないのかと思ってしまう。亨が山が好きである気持ちがいかほどのものか理解できないし、父親をどこまで尊敬していたのか、愛していたのかももうひとつ分からない。

少なくとも山の怖さを教えてくれるものではないのは、山を題材にした作品でありながら無責任に感じる。この映画をみてサンダルで登山に出かける高齢者が出ないことを祈るばかりだ。

ところでこの作品、所々にいかにも重要そうな伏線があるのだが、結局、何も触れられないで消えてしまっている。
ひとつに、主人公の父が命と引き換えに救った登山客の存在である。ストーリー上、実に意味ありげなパーソンとなろうが、綺麗に忘れ去られて終幕となる。
また、勇夫の妻(亨の母)が山小屋に持ってきた丸石がある。自然の中で長い年月をかけて角が取れ丸くなったという丸石で勇夫の遺物のひとつである。山小屋の近くに実に無造作に置かれたそれは、ゴロさんにお酒をかけられたあとは二度と出てこない。しばしば訪れる低気圧が谷底に転がしていったのだろう。哀れ極まりない。
亨の友人・聡史の父親も重要人物っぽい雰囲気があるが二度と出てこない。人もモノも、みんな使い捨てのように画面から消えていくのである。田舎賛美といい、人物らの使い捨てといい、細田守の「サマーウォーズ」や「おおかみこどもの雨と雪」を髣髴とさせる。用意された物語の箱庭からは、話を結末に進めていくうえでの夾雑物は徹底的に排除するわけである。なので物語は素直にハッピーエンドになだれ込むのである。そりゃ手をつないで踊りだしもする。安心して見れる映画である。


まとめ
・ご年配向き
・邦画好き、好きな俳優が出ているのであればどうぞ

・ゴロさん役の人の演技がよい

 
posted by ぎゅんた at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月13日

漫画「藤代さん系。」第四巻 6/26は書店に走れ!7月に入ったら別マsisterな!

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もう読むものは読み切りぐらいしかない別冊マーガレットであるが、藤代さん系。の第四巻の発売日と作者の新作が判明した。第四巻は6/26発売で、新作は7月発売の別マsister夏号に掲載される。第四巻には未収録の読み切りが掲載されるハズである。

藤代さん系。の最終話の感想は、書き溜めてあったがそのままになっていた。読み返すと直情的な文章があるだけで、いまさら掲載する気持ちが起きない。期待していた結末と違ったことを受け止めきれずに不満を述べているだけの内容にすぎないからである。それは、感想といえば感想であるが今更といえば今更だ。

ちょっと残念だったのは、藤代さんと久世くんが、三年生に進級して卒業の話をしていたことである。「最終話事情」がゆえに止むを得ないことかもしれないしが、私は、この二人のマゴマゴした距離感覚の関係が好きだったので、時間をすっ飛ばされたうえに、それらをもう見られないとはと一抹の寂寥感にとらわれたのである。
あとは、久世くんの家庭事情がなぞのままだったのも少しモヤモヤするところ。みたとこと一人暮らしのようだったが、まさか中学時代は両親なり保護者と生活していただろうに。謎だ。エ○ゲーの主人公の両親がやれ放任主義や海外生活で一人暮らししているご都合設定を彷彿とさせるのだ。モヤモヤ。

最終巻の作者のあとがきやおまけページ等で解明されることを祈るばかりだ。
しかしそれよりも古瀬さん特集ページのほうを切望する。少女マンガ多しといえど、こんないいキャラはなかなかおるまいて。
 
posted by ぎゅんた at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 湯木のじん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月12日

忍び寄るiP2700…

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互換性がないがゆえに難民と化したインクたち

実家の「Windows2k対応というロートルで、純正インクだけをガブガブ喰らっていたくせに、インクカートリッジを交換した瞬間に死亡した」プリンタは窓から投げ捨てられたが、あろうことか両親が突如プリンタを買ってきた。店員に相談してwin2kに対応するプリンタをかってきたから、パソコンにつなげて使えるようにしてくれという。いまどきまだwin2k対応のプリンタがあるとは驚きだが、やはり世の中には古いパソコンを使い続けるユーザーもいるわけで、メーカーもそうした事情を考慮しているのだろう。俺は心が暖かくなった。

さてそのプリンタはCanonのIP2700であった。最近のキャノンのインクジェットプリンタの再安価モデルのはずである。Canonというだけで心情的にふぁっくだが、win2k対応ならば文句あるまい。流石に他のメーカーのプリンタにはwin2k対応のものは無かったであろうから。梱包されたプリンタを取り出し配線する。インスコ用CDをドライブに食べさせる。

しかし、ドライバをインストールしようとしたところ拒否られてしまった。
途中までは順調にいくくせに、最後のほうで突如発狂して撥ねられてしまうのだ。何度やりなおしても同じだ!
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※画像はイメージ

さてはと説明書を精読してみればwin2k対応ではないのである。店員に嘘をつかまされたのか、両親が勘違いをしたのか明らかではない。俺は心が寒くなった。

仕方がないので自分のパソコンに接続することにした。Windows7は懐の広いやつなので、飼い主がCanonが嫌いでもインスコを受け付けるのである。まさか自分のパソコンとふぁっきゃ(Fuck'n Canonの略である)ip2700プリンタがオトモダチとなるとは…ロクでも無い画像をプリントして悪戯に使う、その主犯になってもらおう。


ってなわけで冒頭画像のインクたち
・BCL-3eBK
・BCL-7eM
・BCL-7eY
が路頭に迷ってしまったので人攫い使ってくれる心優しい方がいらっしゃいましたらお譲りします。ヤフオクに出品したり火焔放射器(キンチョール+ライター)で焼き払うするのはめどいし、さりとて捨てるのは勿体無い。
取り付け期限は最短のものが「2014.08」となっていますが、問題なく使えるでしょう。多分。純正品だし。
 
posted by ぎゅんた at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常茶飯(ちゃめし)ごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月09日

映画感想「ニード・フォー・スピード」一般人や警官に死傷者は出なかった模様


結論
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クルマ好き=スーパーカー好きとは限らない。ゆっくりのんびりと流すのが好きな人もいるし、オープンカーをこよなく愛する人もいるし、マニュアルトランスミッションであることに拘泥する人もいる。お前のことじゃねえかと言わればその通りだが、少なくとも、私がクルマ好きであることは確かである。そして、この映画がクルマ好きを喜ばせるために作られたことは間違いない。事実、クルマが好きな人は劇場に足を運ぶだろう。おおむね、満足は得られるのではないか。でかいスクリーンで迫力ある映像が大音響で楽しめるのだから。

ストーリーにツッコミをいれるのは野暮なのでそれはともかく、内容に少しは要求をしたくなる。
まず、主人公トビーが地味すぎて、映画が始まってしばらく経っても主役が誰かピンとこない。30分もすれば寡黙で実力のある男だと分かってくるので結果オーライかもだが、導入部である序盤で人物関係に混乱をきたした。

次に、悪役のライバルキャラであるディーノ(ドミニク・クーパー)についてだが、昔、主人公らと確執があったらしいことは醸されるが、具体的に何があったのかは語られないのでサッパリ分からない。過去よりこれからが重要であるとばかりに、このディーノには散々に腹立たしいハメにあわされるのだが、実のところをいえば、主人公が彼を等閑にしてプライドを傷つけたことに端を発する。よほど嫌っているのだなとは分かるにしても、やっぱり過去に何があったにかは分からない。

そんなかんだでディーノさんのご機嫌を損ねちゃったもんだからさあ大変、せっかく成功させた仕事の報酬も「俺とレースで勝負してお前らが勝たなきゃ払ってやんねー!」とやおら無茶振り事案に。…成功報酬なのはいいとしても書類とか交わさないの?アクション映画にありがちなドンブリ勘定ビジネスといえばそれまでだが。しかしあっさりそれに乗る主人公。悪いなのび太、ケーニッグゼグ・アゲーラRは3台しかないのでディーノさんとトビーさんと舎弟ピートは公道レースをおっぱじめる。

速度超過、信号無視、飛び出し、逆走祭りのオンパレードである。事故らないのはただの映画主人公補正にすぎないのであって、畢竟、一般ドライバーが巻き添えを喰って事故りまくっているのである。

この一般車両の事故具合が妙に生々しく、交通事故の憂き目に遭ったことのある人は気分が悪くなるのではないか。どうみても死人が出ている大惨事になっているが、三人は意に介さずゴールの橋を目指す。そんなかんだで舎弟ピートがたとえディーノの後ろからのプッシュで事故って死んだとしても、公道で200km/hを超えてレースしているんだから当たり前だろと。なにが殺されただ。逃げただ。レースはサーキットでやれ。

このストーリー展開は、舎弟のピートがディーノに殺され、あまつさえハメられムショ送りにされた主人公トビーのディーノへの怨嗟に満ちた復讐心につながってくる展開といえるが、なんというか、あまりにも自業自得劇にみえてしまってこの作品が娯楽映画だ(から気にしない)と割り切るにしては歯切れが悪い。

そもそも舎弟のピートを最後まで想う情に厚い主人公であることを強調していたが、肝心のこの二人の絆や友情がどれほどに深いものであったかは想像することしか出来ないので、「仲間がひとり死んだんやな」程度にしか観客は感じないのではないのか。これでは舎弟を殺したディーノに対する怨恨と復讐を誓う主人公に感情移入するには物足りない。ホモだったのなら分かるが、主人公はノンケである。もう少し丁寧にトビーとピートの関係を描いてもらいたかったものである。

同様にケチをつけるならまだある。

それはトビーの相棒となるマスタングについてである。ディーノに組み立てとチューニングを依頼されて仲間と組み立てて仕上げたということだが、みんな大好きメカ組み立てシーンは一切無い(シーンが切り替わって終わりだ)。製作者らは映画「アイアンマン」を見ていないのか?試行錯誤でメカを作る。こんな男心をくすぐるシーンが他にあるか!そんなだから、トビーたちの自信作のチューンド・マスタングがどれだけ凄いかも、彼らの思い入れも分からないし、観客はこのマスタングへの贔屓感情が沸かない。アメリカン・マッスルカーの代表作をチューニングしたこのマシンは物語中盤の要となるだけに、なんとも勿体無いことではないか。このクルマでデ・レオンに参加できなくなったトビーの失意も伝わってこないし、その結果として、ピートを死に追いやった赤のアゲーラ・Rに乗ることになったことへのトビーの複雑であろう心情を推し量る気持ちも沸かない。そもそも「車体が傾いている、このままではデ・レオンで勝てない!」と焦燥していた伏線はなんだったのか。

そして(必要とはいえ)相変わらず公道で危険運転をして一般車を巻き込む運転を平然と行う主人公。こんな人物のどこがヒロイズムに溢れているのだろうか。公道の暴走行為の果てがムショ暮らし185日とかなめてんのか。左右の確認を怠ってホテルから飛び出すから刺客のトレーラーに吹っ飛ばされてマスタングを廃車にされた挙句にヒロインに大怪我を負わせたんだろが。

そもそも男たちだけの汗臭い世界でいいのに、話に滑り込んでくるヒロインとのくだらんラブロマンス(なにが高所恐怖症だボケ!)とか要らないんですよ。トビーの姉さんがフローラを嫁に選んだ場合のビアンカな扱いになってしまっているし。ヒロインが沸いて降ってきたもんだから、仲間たちがイマイチ影が薄くなったり、「陽気な黒人」がイケてないハメになってしまっているのだ。真面目にやれ。それか女を絡めるな。

そんなわけで、この映画に関してはあまり良い評価は抱けなかった。期待はずれ。
カーアクションの歴史は不変なのである。
 
posted by ぎゅんた at 21:58| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする