2014年02月28日

父と娘の偽りのない愛情を描く 映画「神様がくれた娘」感想


まとめ
・古典的な作りの感動作
・ちょっと冗長かも


有名なインド映画らしい。制作は2011年。インド映画を日本に広めたい人が苦心して配給にこぎつけたのであろうか。私としては有り難く嬉しく思う。

主人公は知的障害のある男性クリシュナで、娘ニラーの出産で妻を失った。周囲の人々に助けられながら育てていく平穏な日々を過ごしていたが、ある日、突然に娘を連れ去られてしまう。大筋はこうである。映画は、ニラーを連れ去られたところから始まる。

インド映画は軽妙なギャグと歌と踊りと心を打つ哲学的エッセンスで構成されていると私は考えている。その構成に真顔のトンデモがぶち込まれることもあり、そこもまた魅力的だ。この映画もそうであった。しかし、全体として映画を評価すると、悪くはないのだが、素晴らしいと絶賛するまではないのである。ギャグと歌がツボに入らなかったのが主な原因である。他、少しばかり展開が単調でダレを感じた。映画に集中していなかっただけかもしれないが、悪い邦画のような冗長さがある。

映画のキモは、とにかくクリシュナが純粋無垢な姿であることにつきる。6歳児程度の知能しか有さず、健常者との意思疎通は難しくとも、彼の心は誰よりも美しく一点の曇りもない。人を疑うことも知らず、他人を思いやる心には打算もなく、嘘をつくこともない。人はあまりにも綺麗なものを前にすると心を奪われてしまうように、クリシュナの心の美しさに気づいた人々は皆がほだされる。それは、スクリーンの前にいる我々も例外ではない。人を疑うことも嘘も言わないクリシュナは、ニラーを奪い取った義父も相手型の弁護士バーシャムに対し、憤怒の念など全く抱かなかったに違いない。彼はただ、娘と一緒にいたい気持ちの塊であった。動物的ともいえるその情念の強さは、もうそれ以外になにもないあまりにも綺麗な純粋さである。だからこそ我々は最終日の法廷でのクリシュナとニラーの二人の姿に胸を打たれるし、最終的に彼がとった行動に現実的な余韻を知らされることになるのである。

あれ、こうして思い出してみるととても良い映画なんじゃないか?
二時間半ぐらいの映画ですが、本来はもっと長いそうである。たしかにカットされてブツ切りになっているような瞬間があった。「ロボット」もそうだったが 、インド映画は上映時間が長いのがデフォなのだろうか。

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2014年02月27日

そして難民へ インテグラ(DC5)タイプR について

DC5 typeR.jpg

ここのところGHアテンザと交換してDC5R(後期型)に乗り続けている。
当初は軽い気持ちで交換して乗り比べを楽しんでいただけだったのだが、相手がGHアテンザを気に入って返してくれなくなったのだ。長距離通勤が楽で快適なのだという。私もDC5Rは興味あるモデルであるがゆえ、可能ならしばらく乗ってみたいとなり、任意保険を変更していざ交換、現在に至るわけである。

乗り続けて痛感するのは、車体サイズの小ささからくる取り回しの良さである。乗り継いでじたDC5タイプS、NC1ロードスターと車幅が同じ1720mmなにが大きい。私にとってはこのサイズ以下が最も体に馴染む。これ以上の大きさになると持て余してしまう。車体感覚に優れているわけでも、車に優しい広い空間に満ちた生活圏に住んでいるわけでもないのだ。

専用チューンされたハイオク使用のK20Aエンジンは、走行距離14万5千キロを超えている車体であってもなお回せば凄まじいパフォーマンスを見せてくれる最高の名器である。エンジン音は常に重々しく、まるで喘息にかかったかのような、ひょっとして壊れているのではないかとドライバーを不安にさせる独自の音をしている。だが、ひとたびアクセルを踏めばタコメーターの針はスパッっと上を目指してひた回り、回した分だけのパワーが得られ、6000rpmからハイカムに切り替わり二段ロケット加速が始まる。音の切り替わり自体は、DC2に比べると目立たない点で物足りないと評価されているようだが、私はDC2には乗ったことがないので比較しようがない。おそらくもっとスパルタンな車だったのは間違いないが、時代が違うので味わえずじまいだ。当時のVTEC心酔されたオーナーたちを羨ましく思うし、軽量コンパクトハイパワーのクルマに満ちていた時代が輝いてみえる(事故ったらあの世行きのクルマばかりだろうけれど)。

クルマは、快適装備その他がゴテゴテ追加されるに従って面白さが減るものだと思う。逆に言えば、なにも装備がない(現代の基準から見ると)当時のクルマやロータス・エリーゼに乗ると、余計なものがないだけでクルマはこれほどに面白いものかと吃驚するわけである。これは、端的に言えば車体の軽さが絶対的な刺激であり、FFよりはFR(当時のFFはまだ熟成が進んでいなかった)の方が軽量さが手に取るように分かり、コントローラブルであるから。安全基準を満たすために、ブクブク肥え太ったクルマで楽しさを訴求しなくてはならない現在の自動車メーカー同情する。車体が重くならざるえをえない以上、ハイパワーユニットを積むか、膨大な費用をかけて軽量化を図る他にないであろうから。私個人としては、軽さを追求したクルマ作りが良いとおもう。軽いだけで、エンジンは小型の軽いもので間に合うし、単純に燃費がよくなる。また、軽いだけでタイヤの減りも少ないし、公道へのダメージも小さくなるだろう。衝突時の物理法則的にも軽量な方が良いに決まっている。軽くするだけで得られるメリットはかなりある。たとえパワーがなくても車体が軽ければパワーウェイトレシオが小さくなるし、エンジンを回しきる乗り方がしやすくなる。単純な話、エンジンをぶん回して乗るのは楽しい行為であるし、パワーを常に持て余しているよりも現実的・実用車的である。パワーを持て余す大人の余裕は高級車の特権であってよい。オーバースペックの車を決められたルールの中で乗りこなすには紳士的でスマートな感じを演出できる。

インテグラタイプRは、サーキットで走ることを目的に設計されているので公道ではオーバースペックであり、足周りも硬い。つまり、日常用途に使うにはややピーキーで乗り心地が悪い。体調が優れないときや頭痛がする時に乗ると地味に体に堪える乗り心地である。比べるとGHアテンザは実に乗り心地が良いことに驚く。
加えて、アクセルの吹けとつきのよさがあるので、まさにダイレクト感の塊のようなクルマなのだと気づく。最初はその重さに閉口するステアリングも「この重さでなくてはならない」と次第に納得している絶妙なバランスの上にあることにも気づく。
気に入っているのは3500rpm以上から鳴る硬質な金属音思わせるエンジンサウンドと加速感で、まるで飛行機の離陸時のような音が車内に響き渡る。エンジン音の熱い印象に比べこの回転数では加速自体は控えめであるが、公道では十分なパフォーマンスを発揮できているのでなんら問題ない(合流時ならすぐに流れに乗れる速さ)。合法的に特別なエンジン音を楽しめる悦楽と考えればよい。合法的に楽しめるといえば、高速道路での合流ポイントでは、ダブルクラッチ2速ベタ踏みで怒涛のVTEC加速を堪能できる。この時ばかりは凄まじいパワー感とトルクステアでハンドルを少し取られる怒涛の勢いだ。タコメーターの針は瞬きする間に6000rpmを突破して二段ロケット加速となり更にそこから8000rpmまで駆け上るように加速していく。これは麻薬的快感であると断言して差し支えない。踏んで初めて本来の姿を知ることができる。

高速巡行を100km/h付近で行うとエンジンの回転数が3150rpm付近となる。
ハイオク仕様で燃費も良くないと考えられがちだが、なるべくエンジンを回さずに60km/hで運転している限りは13-15km/Lの実燃費をマークする。その代償は見掛け倒しのノロノロ運転ということになつが、理解してもらいたいのは、速く走らせようとしない限りジェントルで燃費も悪くないクルマだということでもある。
車体重量は約1190kgで、パワーウェイトレシオは約5.41kg/psとなる。2リッター直4NAであることから、軽さが利いている数値だと分かるだろう。

スタイリッシュな2ドアクーペで、MTで、車重も軽く、燃費も悪くなく、速く走らせようと鞭打てば即座に期待に応えるこのDC5Rは、しかし、「次」のクルマ候補をことごとく駆逐するほどの魅力に溢れていてオーナー泣かせ極まりない。私はオープンカー、とくにマツダ・ロードスターを愛しているから、このインテグラタイプRと別れた後はNCかNDロードスターを購入したい気持ちが固まっているので、ある意味では恵まれた立場にある。それ以外の、次の候補が見つからない現・オーナーは心理的に難儀しているのではないだろうか。「繋ぎ」に初代デミオMTを、思い切ってロードスターを購入してはいかがだろうとアドバイスしたいが、悪魔的魅力に満ちたK20Aに代わるエンジンを求められると難しい。大切に乗り続けるのが現実的な案だが、いつかは別れの日が来てしまうのである。


欠点も挙げておかなくてはならない。
・暖機運転時のアイドリングは2000回転前後であり、なかなかに騒々しいこと
・公道ではアクセルを踏み込みたくなる欲求を抑えなくてはならない場面が殆どであること(サーキットに行かない人には宝の持ち腐れに等しい)
・ペダル配置が微妙に右斜めに偏っている感じがすること
・純正のヘッドライトは光量不足(夜道はハイビームでないと暗い)
・のんびり流していると軽やミニバンに煽られること
・アルミのシフトノブは、タイプRの伝統とはいえ、夏は熱すぎて冬は冷たすぎる
・リアのハッチゲートを開ければそこそこ物は載せられるが、後部座席は大人にとってはエマージェンシーシートであること(さすがに狭い)

こんなところであるが、魅力と長所に比べればたいした欠点ではない。


【関連記事】
右矢印1The power of scream. インテグラ タイプR(DC5後期型)試乗
posted by ぎゅんた at 23:16| Comment(0) | TrackBack(1) | クルマ(なんでも) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月26日

【提案】起床時の目覚めをシャープにしたいなら

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まとめ
・ゆる体操から「寝ゆる黄金の3点セット」はいかがだろう?
・起床い弱い人、身体が硬い人にオススメしたい気持ち


昔から朝に弱い。
睡眠時間を長くとっても朝、起きるのがしんどくて二度寝してしまう。二度寝は至福の快楽行為だが、二度寝による睡眠は良質の睡眠ではない。ただの時間の浪費である。それを理解していても、やはり朝の起床に失敗して二度寝してしまう。目が冷めても、眠くてまた横になってしまうのだ。意思が弱くて朝起きられないんだ。ダメな子なんだ。開き直って二度寝を楽しむために早起きして二度寝している始末なんだ。

過去、短眠健康法やら成功する人の早起き生活だの睡眠の質を高める方法論など色々な本を読んで実践したものであったが、朝に弱いことにはなんの革新ももたらされなかった。朝、目が冷めても起き上がれないのである。短眠は、やろうと思えば出来たが、削った分の睡眠をあとで帳尻合わせしなくてはならい身体であることに気づき断念した。夜は暖かい布団でぐっすり寝る、こんな幸せなことがあるか!

そんな中、ゆる体操なるものがあることを知った。体操といっても、ラジオ体操のような爽やかな汗を流すタイプのものではない。健康体操の一種のようだが、とにかく手軽で簡単な体操のようだ。「手軽さ」が強調されたものは胡散臭いので好きではないが、調べれば本当に簡単にできるのでやってみることにした。なにしろ、寝る前に寝っ転がりながら完結する体操なのである。
今回、そのゆる体操について自分なりの知見が得られたので紹介したい。

ゆる体操の中には数種類あるが、私が実践した(している)のは「寝ゆる黄金の3点セット」というものである。
・腰モゾモゾ体操
・すねプラプラ体操
・ひざコゾコゾ体操
の3種類。
それぞれのHow Toは以下を参照されたい。
http://yuru.net/yurufuda02_web-f.pdf
http://yuru.net/yurufuda02_web-b.pdf
考案者の著書「仕事力が倍増する“ゆる体操”超基本9メソッド」にはこの「寝ゆる黄金の三点セット」だけでなく、作者の生い立ちや人生の経緯、ゆる体操の理屈やその他の体操や各体操の効果などの記載が面白おかしく記載されているのだが、読まなくても全く問題はない(ゆる体操に興味が湧いたら通読すればよい)。

早速やってみると腰モゾモゾ体操のツボはよく分からなかったものの、残り二つは簡単でかつ気持ち良かった。寝そべって本を読みながら簡単に実行できるのは素晴らしく、実行が苦でない。考案者のいうとおり、実にローコストである。
ひざコゾコゾ体操はつい気持ちいいポイントを探してしまうが、それで良いので、体操というよりはマッサージの一種に思える。しばらく続けていると、脚に運動した後のような軽い疲労感が出てきたのでそのまま就寝。

驚くべきは朝の起床で、覚醒するかのように目がパチっと開いて起きられたことである。私の睡眠時間は6時間であるが、目覚めても意識が夢うつつで眠くて仕方が無いのが常であるが、この時は全く眠気のない異常にシャープな目覚めであった。漫画やアニメで、寝息を立てて寝ていたキャラが目覚めとともに布団を跳ねあげダッシュで出かけて行くような描写があるが、それが実現可能なほどシャープな目覚めであった。
飛び起きた後、あぐらをかいてウームと唸ってしまった。ゆる体操をしたからの結果にまず間違いないことは明らかであったし、即効性にびっくりしたからである。これは熟睡するように誘導できる体操なのだろう思う。普段の睡眠では熟睡できていなかったに違いない。

身体が硬い人は疲れが取れにくいと聞いたことがある。私は昔から身体が硬く、朝に弱い体質の原因が硬い身体にあると考えていた。今は加齢とそれからくる運動不足により更に身体が硬くなっているに違いない。これは、多くの現代人にも当てはまることだろう。身体が柔らかかった子供時代に比べて、成人以降、身体も硬くなり寝ても疲れがとれない…。身体が柔らかいと、睡眠時に身体を強張らせている不要な力が抜けやすく熟睡しやすいのではないか。そして、ゆる体操は脱力的な体操であることが身体の強張りを緩める働きがあるのだろう。

ところで、膝こぞこぞ運動をすると大腰筋が鍛えられるとある。お腹周りの引き締めに効果的な大腰筋ダイエットで有名になった筋肉である。鍛え始めるとオナラが出やすくなるらしい。なるほど、寝ゆる黄金の3点セットを始めてしばらくはやたらと放屁がちだったが、これは大腰筋が鍛えられたからか。「今日は風が騒がしいな…(ブッ)」と一発ギャグに利用するしかあるまい。

私を含む迷える現代人は寝ゆる黄金の3点セットを実践し、スッキリした朝の目覚めと大放屁をゲットするべきである。
 
posted by ぎゅんた at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月25日

故郷を奪われる残酷さ。心がつながりる暖かさ。 映画「ジョバンニの島」感想


まとめ
・オススメ映画
・良くも悪くも、お上品にまとまってしまっている


実話をもとにした忘れてはいけない物語、とのうたい文句。
私は「実話をもとにしたシリーズ」は、平均点以上の内容にはなるものの傑出した出来にはならない法則を信奉している。なので、この作品もそうだろうと予想した。その通りであった。しかし一方で、この作品が傑作としてあるよう問う行為自体が、必要性も意義もない場違いな徒労であると納得済みなのであった。これは、製作者らが伝えたいであろうメッセージをしっかりとキャッチできたからに他ならない。なので、以下の文書は蛇足である。

本作は終戦直後の色丹島を舞台に、ソ連軍の進駐によって戦後の混乱を生きることになった幼い兄弟たちを描く。こうあると、ソ連の蛮行と島民(無抵抗の被害者)の悲劇、北方領土問題、総じて反戦がテーマなのだなと予想するだろう。しかし、それらのメッセージ性は、確かに存在しているのだが、蚊帳の外にあり強調されてはいない。歴史的にあった史実が、淡々とありのままに流されるままに映像化されている印象を受ける。これは、主人公ら幼い兄弟がただ世界に振り回され翻弄されるだけの立場だからである。彼らは世界を理解するにはあまりにも幼かった。島がソ連兵に入植されるのも、家を奪われるのも、ソ連人と交流を持つことも、様々な別れが始まることも、すべて自分たちの理解の外から突如現れた出来事に過ぎず、ただ受け入れる他にできることなど全くなかったからである。

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幼い学童視点の映画である、と断じて良いと思う。となると、アニメ「対馬丸 さようなら沖縄」が同時に思い起こされる。題材的にも絵柄的にも類似している。しかし、本作は「対馬丸」ほど心が握りつぶされそうな恐怖感と絶望感に満ちてはいない点で異なる。凄惨なシーンや暴力描写もあるにはあるが多くない。いい意味で現代風に洗練されている。
いずれにせよ、本作は北海道の学童たちに教育の一環として視聴されることになるであろう作品だ。そして、学童向けに優れた作品は常に大人も楽しめるようになっているものだ。ただし、少しばかり気になる点がないわけではない。

まず、学童向けにしたててあるにしては、作中に一箇所だけ明らかに不適切な台詞のシーンがあることと、宮沢賢治・作「銀河鉄道の夜」を知っていないと置いてきぼりをくらいかねないストーリーであることを挙げたい。前者は作品全体を通して判断すると確実に「浮いて」しまっており不自然になっているし、後者は銀河鉄道の夜を知らない子どもには少し厳しいハードルではないかと感じた。「分からない⇒集中力切れ」を起こしかねないのではないかと危惧してしまう。これらが杞憂であることを願うばかりだ。なお、私は銀河鉄道の夜は未読である。

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個人的に感じた恣意的な不満を述べれば、ターニャとの別れがあっさりしすぎなのではないかという点。淡々と翻弄される姿を映す映画なので別に不自然ではないのだが、折角の別れのシーンがちょっと勿体無いかなと感じた。純平と仲違いとなったターニャが、純平が千切り捨てたあの夜のスケッチを拾い、思うところあって純平に会いに行くが、すでに樺太に向けて出航することを知り急いで船の見える丘まで走ったことまでを映していれば、最後でより綺麗にまとまったのではないかなと思うのである。実ることのない淡い初恋物語に、あと少し色を付けて欲しかった。

静かに感動する万能作品に仕上がっているので、興味のある方は劇場に足を運んでいただきたい。親子で鑑賞が最適だろう。
 
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2014年02月24日

インドを喰らえ! 映画「デリーに行こう」感想


まとめ
・良作
・インド映画に興味があるなら是非ご鑑賞ください



女主人公がインド人のおっさんに振り回されるドタバタロードムービーと予想していたのだが少し違った。ドタバタロードムービーであるが、女主人公もインド人のおっさん(男主人公)もトラブルに振り回される内容である。女主人公は一般的先進国の感覚持ったお金持ちとして描かれ、男主人公はインドそのもののを醸す強烈な個性を持ったインド人として描かれる。

インドは「初心者にはお勧めできない」扱いされている国であることは有名である。行った人の多くが二度と行きたくないと断ずるからである。しかしその一方で、インドに心酔するほどインドを気に入る人もいるのだという。私はインドに旅行に行きたいとも思わないしインドで生活できそうもない。偏見や観念的なものだが、インドは色々と強烈過ぎるイメージが強すぎて耐えられそうにない。こう考えている人は、私以外にも多いのではないか。そして、本作の女主人公もまた、そうした考え持った人物(やや高慢ちきな金持ち)として描かれる。なので、この映画を鑑賞する人の大部分は、女主人公の気持ちが理解できるだろうし、感情移入するだろう。インドはだらしなく不潔でいい加減過ぎる!なんてこと!
一方の男主人公は、誰彼かまわず大声で話しかけ、根掘り葉掘り質問をして、なんだかんだで相手を笑わせようとする。トラブルに見舞われても大丈夫と笑い飛ばすような人物で、まさしくインドそのもの。最初は拒否反応のでかねない強烈なキャラだが、次第にとても魅力的な人物に見え始めるのが実に面白い。

どんなトラブルにあっても大丈夫と笑い飛ばす彼は、なるほど私の中の「インド」像に近い。だらしなさは不要な力が抜かれたリラックスした自然体であり、不潔なのも(ある意味で)自然の姿であるといえる。いい加減なのも、アクセクしたひとからみれば、の相対的な姿に過ぎない。インドはあまりにも大きくあまりにも雑多であまりに多様であるから、全てを許容する懐の広さが根底にある。インドには悪習も改善すべきところもあまりに多いけれども、それら全てをありのままに受け入れている姿を知ると、その器の大きさに圧倒されそうにある。うまく言葉にできないが、インドの神秘性というやつである。インドが大好きになる人は、きっと、この辺の摂理を悟り感服した人物なのだろう。なにごとも、自発的に「気づく」ことこそ本人を大きく変革する体験はないからである。旅行に行って散々な目に遭っても、「インドだから」で完結してしまう(許されてしまう傾向がある)のは、世界広しといえどもインドぐらいである。インドだからもう仕方が無い。口から火を吐いたり手足が伸びる人がいてもインド人だから不思議ではない。この映画の男主人公の姿はまさしく「インド」に重なる。

なにがあっても「大丈夫、たいしたことはない」で済ませる彼の態度もまた、インドそのものなのだと思わせや、終盤に差し掛かるにつれて本当にそうだろうか?と感じさせ始めるつくりがうまい。そして、終盤にはインド映画特有の「いきなり直球展開」になり、静かな感動を与えてくれる誠実なつくりになっている。インド映画の良さはここである

インド映画というと、歌とダンスが繰り広げられるだけと考える方もおられるかもしれないが、それは偏見である。突飛なシナリオでもド派手な映像もないが、ちょっと考えさせられる哲学的なテーマが心を打つように仕込まれているのがインド映画であり、特徴であろう。映画といえば邦画か洋画の有名タイトルを抑えるぐらいでインド映画にはあまり食指が動かないかもしれないが、私はインド映画独特の魅力はもっと知られて欲しいと思う。インドのいい面も悪い面も、ありのままにフィルムにぶつけられたこの作品は魅力的な勢いがある。性的なシーンや暴力シーンもなく、歌とダンスのシーンは忘れずある。だれでも安心して楽しめる良作。



※とはいっても、私が観たインド映画は「ロボット」「スタンリーのお弁当箱」しかないのだが。しかし「いきなり直球展開」と哲学的なテーマが組み込まれているのは共通しているように思う。
posted by ぎゅんた at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月22日

社会科の授業にどうだろう 映画「大統領の執事の涙」感想


原題は「 The Butler」。どこに涙があるのか。
激動のアメリカ近代史に於いてホワイトハウスに長年務めた黒人執事が見つめていたものはなにかを味わえる渋いヒューマン映画と思いきや、その実は黒人差別教育映画であった。裏切りとは言わないが、違和感を覚えた人は多いのではないか。日本人にとって、黒人差別問題はアメリカが抱える重要な問題と知りつつも、結局のところは海の向こうの他人事問題のひとつにすぎず、ぶっちゃけて言えば日本人にとって興味ある題材とはいえない。これは日本が(基本的には)単一民族国家であり、移民からなる他民族が暮らす国ではないからこそくる実感のなさが原因である。細かく言えばアイヌ差別や琉球差別があるが、身近な問題として捉えている人は殆どいないだろう。差別そのものを気にしない人が多いように思える。我々は狭い島国で面を付き合わせて行きているので、見た目が同じで日本語で会話できるようなら、ことを荒立てて生活に支障が出ることを避ける。お互いに譲歩してでも仲良く生活していこうと考える。資源乏しい国土なので、気に食わない面があってもそれは飲み込み、手を取り合って生きる道を選んできたというべきか。そして、人種差別云々よりも差別利権を毛嫌いする人の方が多いだろう。タブーなので誰も口にしないが。

黒人差別は、元はアフリカからの奴隷政策からくる移民問題である。骨格と肌の色も違う彼らは母集団(白人)からは区別され、母集団と異なる存在には常に異質排除の作用が働く。これをして、同じ人間でありながら非人間的扱いを一方的に受ける差別となる。現代アメリカ社会における黒人差別は一応の決着がついているけれども、ただの表面上の決着にすぎないと捉えている人も多い。私も、そう思う。黒人だけでなくイスラムを含むアジア人もヒスパニックも明らかに差別されている。自由の国とは名ばかりで、実態は白人至上主義の超学歴社会である。貧富の差があまりにも拡大して社会問題となったために人種差別が目立たなくなっているにすぎない。「フォーリング・ダウン」を鑑賞した経験の有無に関わらず、米国はとても住みたいと思う国ではないと考えるのが普通だろう。

差別は決してなくなることはない。差別が存在しない社会が望まれることは間違いないけれども、果たして、実現されるだろうか。人が自己を有し他人を非自己と認識する生き物である限り「区別」はあるわけで差別がなくなるわけがない。しかしそれならば、本人の意識次第で差別を封じることはできる。差別は倫理観とモラルの欠如から滲み出るものだからである。人類みんなが高い徳を積んでいけば、差別問題など無視できる範疇に希薄化できるだろう。それがいつ実現されるかは不明である。

採点者に受けのいい文章を拵えようと真面目くさって臨む小論文じゃあるまいし、この映画は娯楽的な要素に乏しい。当時の黒人差別についての様子と歴史が延々と流れるばかりで、(私が期待していた)大統領の執事の仕事っぷりがどうにも少なく、印象も弱い。繰り返すが、私が期待していたのは激動のアメリカ近代史におけるホワイトハウスに仕えた執事のドラマであった。黒人差別について真摯に向き合った映画であることは分かるけれども、勉強を押し付けられている気持ちになったのは事実である。そして、これだけ黒人差別について盛り込みながら、先住インディアンについて何も触れられていないことに至ってアメリカ人特有の傲慢さを感じさせられてしまい興醒めしてしまう。息子との確執も、結局のところは先の読めるシナリオの域をでないばかりか現オバマ政権あげに落ち着くエンディング。そりゃオバマさんは目に涙あふれるだろうよ。あくびして溢れた涙かもしれんけど。その一方で悔し涙を流した人もいるぜ。


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2014年02月16日

家猫みいたん

可愛くて仕方が無いのである。

およそ理性を吹き飛ばしかねないかわいさ。目に入れても痛くない、むしろ目にぶち込みたくなる衝動に駆られる愛らしさ。ペットの名をしたを生物兵器としか思えない。たいへん危険である。make us whole again.

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男を誘うこの淫靡さ。顔のあたりを撫でると気持ち良さそうな顔をする。続けているとゴロリ横になりお腹を見せてくる。可愛すぎて理性が飛びそうに。

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マフラーをかけると寝てしまった。タマラン。可愛すぎる。

あまりにも可愛くてつい「みいたんレ◯プ!」と発言してしまい、それを聞いた飼い主がフリーズしていたが私は悪くない。これを読んでいる貴方も、そう思うだろう。この子と生活するためにペット可の物件を探しださねばならないのが喫緊の課題である。

まとめ
ぎゅんたはみいたんを愛しています。


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2014年02月15日

勢いから脱線 映画「スノーピアサー」感想


洋画と思いきや韓国人監督による韓国映画であった。
公式サイトを見てもハングル表記もないし韓国のかの字もない。多くの人は一見して気づかないのではないだろうか。作品の舞台は韓国でもなんでもないので、韓国映画であることが明示されていなくとも大きな問題はないが、韓国映画と知ったら積極的に興味を示す人もいるし、逆もまた然りであるから、ハッキリ明言しないと不誠実であろう。

さて、あらすじはこのようである。

氷河期となり地上の生物は絶滅した近未来。僅かに生き延びた人は列車スノーピアサーの中にいた。だがそこは厳然とした階級社会におかれていた。優雅な客室で贅に耽った暮らしをする先頭車両の上流階級と、さながらスラム街のような狭く不潔な後部車両にすし詰めにされた下流階級である。ある男が革命を起こすために立ち上がり、先頭車両を目指す。

自由のための階級闘争もの、と想像できるし、列車の外が荒廃した極寒世界という設定はSFチックである。列車の中でしか生きることの出来ない残された人類だが、そんな環境の中でも階級社会がある、とするなら、それは現代における格差社会を模したテーマでもある。きっと主人公のいる後部車両の下流階級は人権もクソもない存在で、上流階級に虐げられているに違いない。つまり、上流階級は鼻持ちならない非人間的な外道であって清々しい悪役であって、「善」である下流階級から下克上される展開になるに違いないのだ。弱者(貧者)が強者(富者)を討つストーリーは昔から庶民お喝采を浴びやすい好題材である。格別の目新しさがなくとも、「大筋はこうだろうから」安定した活劇が見られるだろうと観客は安心して席につくことができるわけである。
少なくとも、私はそう考えていた。


結果
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細かくツッコミを入れても仕方のないB級映画だと分かっていようとも、しかし、作品に集中できなくさせるほど多くのツッコミ処を生ませない程度の説明はあってしかるべきであろう。物質の資源はどこからくるのか、完全リサイクルシステムなのか、作中で連呼される「エンジン」は結局なんなのか、どんな永久機関なのか、乗客の排泄物の処理はどうしているのか(トイレ車両も便器もない)。スノーピアサーの車体のみならず線路のマテリアルの疲労をどう克服しているのか、結局バッドエンド確定じゃないのかetc

車両が舞台というのはこの作品の設定上の特徴だが、幅が狭すぎて社会生活を実現する規模をなし得ていない。地球が氷河期になることが分かっていて急遽製造された突貫仕様の列車ではなく、一年かけて世界を一周するための特別な列車のようだが、どうにもこうにも狭すぎやせんか?かと思えばやたら広い空間の車両もあったような気がする。極寒世界に沈み滅んだ銀世界をひた走るスノーピアサーを俯瞰的に映すシーンは作中に所々に挿入され、実に素晴らしく格好良いのだが、そんなスノーピアサーは全車両の幅が同じでせいぜい新幹線程度の大きさでしかない。なので、スノーピアサーを「ノアの箱舟」と例えられてもピンとこない。夢の無い発言をすれば、別に列車で走り続けなくてはならない理由がないだろうと。折角の美味しいSF設定であるのにもったいない。

あらすじから予想していた、「弱者(貧者)が強者(富者)を討つストーリー」は、そこまで単純ではなかったけれども、結局は上流階級は一方的で傲慢で非人間的に描かれている。「ウルフ・オブ・ウォールストリート」もそうだったが、富者はドラッグや酒に溺れた頽廃的なイメージで描写される傾向にあるのだろうか。分かりやすい悪役像としてはよいが、ちょっと安易過ぎる。深読みするなら、これは多くの観客に対するウケ狙いで、その背景には昨今の多くの人が富者を憎んでいる傾向にあると製作者側が汲み取っている(不満をぶつける矛先が富者であればよい)のではないか。主人公サイドらが下流階級で上流階級に対する革命であるのも、現実的に上流階級層に対する潜在的な不満を意味している。映画に限ればいいのだけれども、これが過ぎて現実的に固定観念になっているのは危険である。とかく「田舎暮らしをする人たちや貧乏人=清い善人。金持ち=悪人」であるとする傾向が昔からあるものだが、これが誤ったバイアスであることは知っていなくてはならないし、こうなる原因の根本が「お金=汚いもの」とする妙な道徳観からきていることも理解しておきたい。現実的に悪人の多くは犯罪者であろうが、人を犯罪に走らせる主原因は貧困である。お金が無く余裕が無いから犯罪に走ってしまうのである。本邦の生活保護制度も、現代のモラルハザードと現金を支給する制度の見直しを叫ばれつつも、生活を保障する金が支給されることで被保護者らを犯罪に走らせないセーフティ機構となっている側面がある。「清貧」と、貧しいものを善人と思うのは勝手だが、それを素直に社会に当てはめると犯罪が多発して治安が悪化するだけの結果となる。生活保護が問題視されるのは、生活保護を受けていないものたちの収入が下がったからである。少なくとも、下流階級(弱者、貧乏人)が善人であるとするのは偏見である。むしろ高額納税者こそが手放しで褒め称えられる善人である。我々貧乏人や一般市民は、実感しづらいが高額納税者に助けられて生きているのである。彼ら高額納税者は上流階級であるが、別にこの映画のように理不尽な圧制を我々に強いてくることはない。もっと、目に見えない分かりにくい形で実に賢く我々を奴隷扱いしているが、だからといって我々は後部車両に押し込められているわけでもない。この映画は、結局、監督が何を言いたかったのかイマイチ分からない。先頭車両に到着する終盤はもう観賞に疲れて果ててしまった。


まとめ
・列車が好きならどうぞ
・様々なアングルから映される、滅んだ銀世界をひた走るスノーピアサーが格好良い(本編なんぞ捨てて、走るスノーピアサーだけを観ていたい)
・日本人を軽くディスっている描写あり(悪役、妙な台詞、模式的世界地図から日本を省く)
・滅んだ極寒の世界を見ながら黒人の握った寿司を食べるシーンのシュールさはこの映画でしか味わえない
・中盤のスクール車両の狂気っぷりがこの作品のピーク
・あとはもうしらん

posted by ぎゅんた at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

おめでとークラッカー 別冊マーガレット三月号より「藤代さん系。」第10話 感想

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古瀬さんの出番がサッパリない第10話です。
告白して付き合うことになった藤代さんと久世くん。そんななか、早速ふたりに事件が起こって…というありがちで誰も望んでいない展開はなく、最近のゴタゴタを静かに整理するような内容になっております。これがまた上手にまとめられておりまして、この作者ならではの描写となっております。

前回の告白のくだりには、古瀬さんは特別に大きな絡みがなかったためか、今回は出番が殆どなく、古瀬さんスキーの私はハンカチを噛み千切ることになるわけであります。とはいえ古瀬さんは二人を祝福する気持ちに満ち溢れているのがわかり、そんな彼女の優しさにぼくの(おっさんの)胸はキュンとなります。今後、古瀬さんの家に遊びに行くイベントがあるはずなので、それを楽しみに待つことにしましょう。…と言いたいところなのですが、次回が最終回になっています。イベント回収できぬまま終わってしまうのしょうか。ぐぬぬ全四巻完結になるんですね。第4巻には、きっと単行本未収録のままの読み切り二本が収録されるのでしょう。そこにオマケで古瀬さんの話があれば言うことなしです。

しかし四月から、もう月間連載を追いかける楽しみが生活から無くなるのだと想像すると一抹の寂しさをおぼえます。


まとめ
ぎゅんたは湯木のじん先生を応援しています。

 
posted by ぎゅんた at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 湯木のじん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月13日

虐待は負の連鎖か 映画「THE ICEMAN 氷の処刑人」感想


殺し屋もの映画は、必ずといっていいほどこういうエッセンスがある。

・殺人をためらうことのない非人間さ
・一方で捨てきれられない甘さ(女子供には手を出さない)
・愛に生きようとするも不器用でうまくいかない

この映画も、そうである。テンプレでもあるのだろうか?他に話を広げられないのか?フィクションだとハッピーエンドになりがちだが、実在の人物をモデルにしたこの作品ではバッドエンドとなっている。

主人公リチャード・ククリンスキーは短気な男で、いかつい風貌と物怖じしない度胸を見込まれて殺し屋稼業に足を踏み入れる。大金を稼いで愛する妻にいい暮らしをさせたいがためでもあったが、すんなりその道に足を踏みいれる。そして淡々と仕事を積み重ねていく。この時点で常人の思考・感覚から逸脱しているし、家族のために大金を稼ぐためとはいえ許されない行為をしている。そんな彼の中には禍々しく歪んだ性分が潜んでいることが明らかになってくる。異常に短気で、暴力の衝動を抑えることができず、殺人を犯すと精神が安定するのだ。裏稼業に手を染めていると愛する家族に悟られない「良き父」でいるためには殺人し続けるほかにないアンバランスさ。それがいつまでも保たれることはない。

実在の人物をネタにした映画であり、大筋に細かな融通がつかないためかエンターテイメント映画としてみると中途半端さがある。後半にいくにつれて展開が急に雑になってくるのがちょっと。題材は良いのだからもう少し面白くできたはずで、そこが勿体無く感じる。事実は小説よりも奇なりとはいうが、エンターテイメントとして考えれば練りこまれた小説の方が面白いに決まっている。突き抜けたクライムアクションでも人物描写が巧みで感情移入できるほど重厚なドラマでもない本作は、凡庸な「殺し屋もの」に落ち着いてしまっている。ククリンスキーをモデルにしたフィクション映画にして、家族のため愛に生きんともがき苦しんだ末に幸福を勝ち取る物語にしてくれた方が良かったようにも思う。殺人で手を地に染めた人物がいかなる事情や感情にて苦悩しようとも、決して許されることはないから、勝ち取る幸福は一般的なハッピーエンドには当たらないだろうが、そこでうまく観客を唸らせる結末を用意した映画にした方が余韻が残る意味でも良かっただろう。好き勝手いいやがってコノヤローとブッ殺されそうな感想だが、観終わったときに抱いた率直な意見なのだから仕方が無い。

いいところもあって、昔のアメ車がそこかしこに見られたり、命をあっさりと奪う冷酷な殺人劇もなかなかのもの。中盤から主人公と微妙な相棒関係になるアイスクリーム販売車(妙にでかい)を操るミスター・フリージーが味のあるキャラでお気に入り。凍らせた死体を入れた冷凍庫に一緒くたに入れてあるカップアイスを幼女に無料であげちゃう紳士である。彼とククリンスキーの共同仕事ぶりをもっと見たかったのだが、絡んでいるシーンがどうにも少なかったのが残念だ。もう一人のククリンスキーというべきキャラクターなのだから、積極的に絡ませたほうが結果としてより面白く深みのある作品になったのではないだろうか。
 
posted by ぎゅんた at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする