2017年08月06日

(映画感想)「メアリと魔女の花」 米林宏昌監督の気持ちをフィルムにのせて





まとめ
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「かまいたちの夜」というゲームに、有名な裏シナリオがある。製作者側の裏話をリアリティを込めて作品に投影したシナリオで、切り口を別にしたホラーテイストが衝撃的で話題になった。

邪推かもしれないが、本作「メアリと魔女の花」にも、裏シナリオを感じずにおれないものがあった。
本作で登場したキーアイテムやキーパーソンを以下のメタファーに当てはめてほしい。


ホウキ:アニメーションで表現できるもの/アニメーターの道具

夜間飛行の花:「スタジオジブリ」のパワー

魔法の書:スタジオジブリのハウツーや著作権、権利書

エンドア大学:スタジオジブリ

博士:宮崎駿

学長:鈴木敏夫

フラナガンさん:高畑勲

大学内の生徒や主従ロボ:スタジオジブリで働くスタッフ、イエスマン

モンスターに魔改造された動物たち:才能を持っていたけれど滅茶滅茶にされた有為な人材

ピーター:米林監督の信じるところの「才能」や「才覚」、とても大切にしたい無垢の的なもの



この視点で本作を見ると、米林監督の魂の叫びが透けてくるのである。

ホウキは、アニメーターがアニメーターたる証明であり、具現化のための道具である。夜間飛行の花は、とてつもない魔力の塊のような存在として描かれているが、これを用いる時、メアリは掌で花を潰す。すると水飴のような粘着質のある青色のスライムが発生する。この描写はどう捉えても爽やかさ(一般人が「魔法少女」に普通に期待するような、軽量感)とは無縁である。これをホウキの柄の刻印に摺り込むことでホウキが脈打ちムクムク大きく太くなり自活を開始する。空を飛べるようになる。

「あなたは稀代の天才だわ!」と学長と博士、学生らに称賛されたメアリは、ただ強大な魔力の塊を使っていただけに過ぎないし、赤毛の末裔が本質的に優れた魔女の血統である説明は語られどメアリが優れた魔女の資質を有していたかについての言及はない。米林監督は、自分は才能がある考えてはおらず、謙虚な姿勢であることがうかがえる。


魔法の書は、まさに魔力さえあればできぬことはない「呪文の神髄」であり、かけられた魔法を強制解除する魔法まで記されている。学長が血眼になって固執する様がなにを意味するか、あなたにも、分かるだろう。


エンドア大学は米林監督がみたスタジオジブリそのものである。瀟洒雄壮な外観だが、巨大な扉で外界から隔絶されている。排他的さしか感じられない。誰もいない大学と思わせておいて、内部には学生の姿がある。しかし、2度と出てこない。エレベーターで最頂上の教室でメアリたちをぐるりで出迎えたのは、透明になっていた学生たちである。メアリの魔力を目の当たりにして学長と博士に混じって拍手喝采する彼らに表情はない。ズタ袋を被っているからである。博士に主従するロボットは胸に穴が空いている

この大学では野心に狂うトップ2人が日夜、狂奔している。早口でなにをどう喋っているのか分からない人体改造した博士と、大学の発展と覇権拡大に取り憑かれた肥え太った楽長の姿が執拗に描かれる。彼らは、「昔は良い教育者」だったのである。この二人の存在感は圧倒的である。

大学の扉を抜けた先の中庭には薄気味悪いクリーチャーが見え隠れしている。大学内部には学生らの教室のほか、勉強に明け暮れる学生のために学食やレクリエーション施設を完備している。その一角に動物実験棟が備わっており、博士に「失敗もまた結果だ」と言われるモンスターが檻の中に閉じ込められている。

大学の外、長い階段下にあるホウキ置き場にはフラナガンさんがただ1人で存在し、饒舌で早口な、独り言に近い言動でメアリに接する。悪い人ではないが、完全に心許せるほど理解しあえそうな感じは最後までしない。ホウキへの愛情に満ちた超マイペースな人物である。窮地に立たされたメアリとピーターの前に現れ「ホウキを粗末に扱っちゃならん」と手渡し去っていく。学長に「フラナガンめっ!」と歯ぎしりされ、博士に「あいつは変わらんな」と言われていたりする。


捉えられたピーターは「若い方が魔法の影響が素直にでるから望ましい」と博士の実験材料にされる。この実験で博士がなんの誕生を求めているのかがよく分からない(博士本人だけは遮二無二)あたりが面白い。水色のスライムになったピーターは制御不能となり破壊活動を開始することになり、博士は「なんで失敗したんだ」と狼狽える。学長は魔力を吸われる。メアリとピーターは力を合わせて魔法の書にある「強制解除」の魔法を発動することでピーターの変身を解く。

一連の騒動が終息する。博士と学長は「魔法つかいだから生きてるでしょ」と安否の確認がないまま放置されるが、生きている。ただし、モンスターから魔法を解かれた動物たちに囲まれる場面で終わる。2人に寄り添うように集まってきたようにも見えるが、詰め寄られているようにも見える。

ホウキにまたがってピーターと帰途につくメアリは、シャーロットおばさんに鏡ごしに手渡された最後の花を手放し捨て去る。掌で潰しもしていないのに、花は空中に四散するのだった。スタジオジブリはもうなくなったし、米林監督は独立の道を歩み始めたからである。


以上は、誤った鑑賞の仕方かもしれない。しかし、こう見ないと本作は売れない凡庸な映画の烙印を押すことになる。ジブリ風作品を期待した大人には爽快感のないことにくる物足りなさを、子どもたちには薄気味悪さからくる興醒めをもたらす内容だからである。効果音がやたら尖っていて耳に煩く、陰鬱な雰囲気があり、不気味なエッセンスの露呈を隠しもしないこの作品は、およそ多くの観客の期待を裏切ってしまう出来だからである。

しかし、米林監督のスタジオジブリに対する印象、また「ポストジブリ」を背負わされたことに対する心情と答えをアニメーションに仕上げたのが本作であると考えるのであれば、本作は途端に生々しいメッセージを、実に生き生きと伝えてくるのである。

なお、「電気も魔法である」ということと、博士の実験の暴走の描写から原子力発電への否定的な見解を示すメッセージを醸し出しているが、断言してもよいがブラフである。宮崎駿が原発が大嫌いなことを承知の上で、狂気にひた走る博士にメルトダウンさせているだけである。
 
posted by ぎゅんた at 18:02| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月04日

(書評)「年収防衛 大恐慌時代に「自分防衛力」をつける」森永卓郎・著




テレビに出てくるコメンテーターは、誰もかれもが「庶民の代表ヅラ」を演じているものである。それが、視聴者にウケがいいと考えてのことなのだろう。ディレクターの指示かもしれない。視聴者が偏差値30代のバカで先導しやすい連中(B層)と想定して番組を作って放送しているとテレビ局の姿勢が見えるというものだ。勿論、コメンテーターが庶民の代表だと思っている視聴者などいやしないが、視聴者は大人なのでテレビ局に文句をつけたりしない。さりとて危害があるわけでもないからである。選挙期間中の立候補車の垂れ流される演説と同じで、生活の中を通り過ぎていく環境雑音のようなものだ。


著者である森永卓郎氏は、有名な経済アナリストで、テレビにコメンテーターとして登場したこともある。この人は庶民の代表を名乗っても相応しいと思える人物である。言うなればセコい人物なのだが、何をいうセコくなければお金は貯められないんだぞという信念を感じるからである。稼ぐことも大切だが、節約がまず大事であると強調するスタイルは非常に庶民的だ。私は好感をおぼえる。


庶民こそ、ラテマネーを浮かして消費を減らし倹約に勤め、家計を助けるべきなのである。自分のポケットからこぼれ落ちている小銭を減らすことが重要だからである。金銭的な余裕がないと人は不安定になるものだが、大概は、自身の生活内容を見直し行動に移すことで解決の糸口が見えるものだ。酒、タバコ、ギャンブルを嗜む人は、そのうちどれか1つでもやめてみるとよい。どれだけお金が手元に残る気づくべきである。また、お金を使うなら、現金唯物主義に陥らず、カードとポイントも見逃してはならない。節約やポイント還元を面倒くさい行為と感じるならそれまでだが、楽しむぐらいの余裕がほしいものだ。


内容は浅く広くという感じで、まさしく新書のそれ。気構えず気楽に読める、あなたの生活向上のための提案本。ちょっと古い本だが気にせず読める。やっぱ新自由主義はあかんで。

posted by ぎゅんた at 22:07| Comment(0) | 漫画以外の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

(映画感想)「ジョニー・マッド・ドッグ」




子どもには安定した社会と大人の庇護と教育が不可欠だと思い知らされる映画。戦争映画の範疇に入る作品だと思われるが、派手な戦闘シーンや残虐描写はない。暴力描写よりも、銃を持って殺人をも厭わない子どもの姿を克明に映している。ストーリーのある映画だが、ところにドキュメンタリさが感じられたりして、冷たく残忍な現実をフィルムを通して伝えてくる。「カティン森」や「ホテル・ルワンダ」のような、視聴することで魂を抉らるタイプの作品。

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アフリカを舞台にした映画は数あれど、どれもこれも内戦の哀しみが描かれるきらいがある。まるでアフリカは内戦で大地を血で染め尽くしていると言わんばかりである。アフリカ各国の発展が遅いのは、内戦が起きざるを得ない国家間構造(構造的に民族対立を煽りに煽るスタイル)と不安点な政情による貧困に原因があるのであって、アフリカ人の知能が低いとか、赤道近辺の人種は怠け者だとかいう意見は偏見に満ちた的外れである。政治・経済が安定すると、社会情勢が安定し、発展の道を辿ることになるのが普通だ。ただし、アフリカは民族対立が蜂起しやすい構造にあるために、いいところまで行くと内戦がおこって「ポシャる」ようである。海外に留学にでた知識層は国に帰らず、良識ある治世者は心が折れそうになっているのである。アフリカで発展しているイメージにある国家は南アフリカ共和国であるが、犯罪率は依然と高いようである。このまま数十年、国が維持されていけば時間が社会の安定化に寄与するものと思われる。勿論、私はアフリカ詳しいわけではない。世界中の多くの人も、そうだろう。アフリカに関する情報をニュースや書籍や映画で得ているに過ぎない。

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舞台は作品中では明らかにされないがリベリアのようだ。リベリアには、過去の内戦時の混乱を生き残った人や少年兵が今も民主の中にいて普通に生活しているそうである。内戦が終われば、職を解かれる兵士もいるわけで、本作の主人公ジョニーもそのような扱いだ。悲壮な姿が描かれる。少年兵というのは、大人の都合に理不尽に巻き込まれて人格も人生をめちゃめちゃにされた使い捨てのような哀れな走狗だということである。この作品のフォーカスは少年兵の姿にあり、彼らを産んだり利用している大人の姿は控えめである。そこがまた、救いの無さを強調している。
 
posted by ぎゅんた at 12:36| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

(読書メモ)「30過ぎたら利息で暮らせ!」原尻淳一・著




サラリーマン向けのビジネス書。マーケティングについて、また、学びとビジネスへの応用と実践と発展についてがストーリー仕立てで書かれた本。肩肘はらず気楽に読める内容。2009年発行。

本書の中から、個人的に印象に残った箇所を記憶頼りに抜粋したのが以下である。



マーケティング
扱う商品やサービスと世の中とをマッチングし、売れる確率を高めていく作業。

マーケティングとは商売の道具である。「いかに失敗しない確率を高めるか」の思考技術でもある。よく耳にするマーケティング戦略とは、商売戦略のことである。


商売を考えたとき、最も重要なことは「売り上げ」である。売り上げはシンプルな公式で成り立っている。

売り上げ=客の頭数 ✖️ 客の来店頻度 ✖️ 客単価

マーケティング戦略は、この3つのボタンのどれを押すかの問題。頭数の戦略か、頻度の戦略か、量の戦略か。



リバース・エンジニアリング学習
マーケティングの理論や方法は自分の身で実践してみる。必ず一度、自分の生活で理論の有効性や本質を確かめ、そこで得た理解を業務に持ち込む。マーケティングで行うことには、必ず自分の生活の中に、それと対応する要素がある。そこで、自分の身体感覚で実験しながら解析し、教科書的な抽象概念を補正し意味を深く理解する。それをビジネス構築に反映しようとする学習行動のこと。

新しく知ったビジネス理論があったら、それを実生活で取りこみ反映する。結果をフィードバックし、実際の仕事に応用する。



マーケッターが、やらなくてはならない仕事の根幹
自分が扱う商品を、市場やトレンドに最適化すること。
商品やサービスを売るための業務と、母親が子どもを想ってカレーライスを作る作業は、商品と顧客のニーズをマッチングさせるという点においてまったく同じ。

これは簡単なようで意外に難しい。コミュニケーションの秘訣を知っていなくてはならない。コミュニケーションがうまくいくかどうかは、いかに相手のことを想い、相手にとって必要なことを察知して、そこに自分の意見や考えを重ねることができるかにかかっている。相手を想って、自分の言葉を重ねることを、日常的にトレーニングしていくべきである。会社でも家族や友人と一緒のときも、全ての場合において、まず相手が何を望んでいるのか、そして自分は何ができるのか、その点を考えてから言葉を発する癖をつけるようにする。相手を想って発した言葉に、相手がどう反応したかをノートにまとめていくと良い。相手を想うとは、相手の立場で物事を考えることである。だから、相手の意図がわかりやすくなる。相手の意図がわかれば、自分のやるべきことが明確になる。



アウトプットのために自分のデータベースを構築する
ビジネスに使える知識や情報は、常にアウトプットにつなげることを意識する。アウトプットのレベルを高めたいのなら、たくさんインプットして有効な知識や情報をたくさん吸収することである。読書からでも、インターネットからでも、自分で撮った写真でも、使えそうな情報はストックし、整理しておく。



スペシャリストとして重要なこと
「変わらぬ本質を、どうやって新しい技術やトレンドやターゲットに適応させていくか」ということであり、優れたプロはそのための編集能力に長けているものである。

スペシャリストは会社で積み上げた知識がとても深いので、その知識を原資として形成される価値の利息が大きくなる。自覚的にスペシャリストを目指し、そこで培った経験や知識を活かして自分の価値を膨らませることが大切である。また、人間関係を広げることも忘れずに。生き方の幅が広がるだけでなく、自分が所有するスペシャリティの価値を認めてくれる人との出会いがあるかもしれない。

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2017年07月05日

(書評)「ドキュメント 高校中退 −いま、貧困がうまれる場所」青砥 恭・著


高校中退は、実質的に身分が中卒であることを意味する。そして、極めて世間体が悪い。「中卒は使い物にならない」「中卒だから、職にも就けない」などという認識が広く世の中に蔓延している事実を、誰しも実感として承知している。そして、「最低限、高卒」が社会的コンセンサスとなっている。

冷静に考えれば、これは誤解であって偏見である。中学校を卒業した人間が使い物にならないのなら義務教育は機能していないし、就職できないのは雇用者が中卒者を一方的に弾いているだけだからである。高度に専門的な職業はさておき、義務教育を終えた人間であれば大抵の仕事に従事できるからである(その場合、雇用者に「育てる気」がなくてはならない。即戦力を要求する、育てる気のない雇用者であれば不幸なことになる。もっとも、そうした雇用者が中卒者を雇うとは思えないが)。

しかし、実質的に中卒であると憂き目にあう。なぜなら、彼ら高校中退者=中卒者の大多数は、中学校を卒業した者が普遍的に備えているはずの学力を備えていないからである。就職というのは、ひとまずは絶対的な立場にある雇用者に「こいつとなら一緒に仕事ができる(したい)」と思わせることが根底にあるものなので、乱暴な表現をすれば「馬鹿」はお断りなのである。九九すらも満足にできない人間を雇う雇用者はいないのである。本書のタイトルにある「高校中退」の原因の根底には、深刻な学力低下が横たわっている。ドキュメントとあるように、本書にはその実態が生々しく記述されている。高校中退と学力低下の関係性について、多くの人は気づいていなかったはずであるから、一読すれば驚かされることだろう。そして、その深刻さがどれほど日本の社会を毀損しているか、考えさせられるだろう。貧困があるから高校中退が起きているのではなくて、学力低下と高校中退によって貧困に陥る(「貧困がうまれる」)のである。ここには、日本の識字率は世界一だとか学力ランキング上位の県の教育が云々といった、高校中退と全く無縁の位置にいる情報の陽は照らない。

恐ろしいのは、家庭が貧困であることが逃げられない呪いのように学力低下に結びついてくることだ。貧困が、有望な子どもたちの未来をどれほど奪ってきたことだろうか。社会全体が共有しなくてはならない悲劇が横たわっている。



子どもの貧困と学力低下についての問題は、ひところに比べ世に広まったかに思える。しかし相変わらず、貧困家庭でありながら学力低下で落ちぶれるのは本人の努力不足であると断ずる声がある。これはあまりにも一方的な感情論である。「衣食足りて礼節を知る」という諺があるが、勉強もまた、衣食が足りていなくてはならない。生活に余裕がなくてはならない。貧しいとは、学べないことなのである。

筆者は、学力低下に対する社会的なサポートが必要だと説く。筆者の考察の元に繰り返して述べられているが、日本の授業料は高額であるし、子は将来の国の宝であるから高校教育を義務教育とし、無償化すべきという主張がメインである。これはもっとものことのように思えるが、私は賛成できない。高校教育も義務教育化すれば、今度は「最低限、大卒(および専門学校卒)」に移行するだけの気がするからである。高等教育が無償化することも望まれる施策ではあるが、それよりも学力低下に対する処置、ことに貧困家庭に育つ子どもへの学力サポートの拡充が先決ではないかと思うからである。学力低下の始まりは、授業について行けなくなった時から始まるのだから、この時点での介入が求められる。子どもは、授業について行けたり、テストで点が取れれば安心するし、勉強に前向きになるものだ。

学校の授業について行けなかったりテストで点が取れないことで周りと比べられ自分が劣っていると判断させられるのは、本来、酷で一方的なことなのである。とくに大人には「テストの点が全てではない」と慰めのように述べることがあるが、子どもたちにとってはテストの点は絶対的な尺度なのである。テストで点が取れないと落ちこぼれ扱いするくせに、どこの口がそんなセリフを吐くのか。

学校のテストの点がその子の将来やその子の素晴らしさを保証する者でもなんでもないことなど大人は分かりきっている。けれども、小さな世界観に生きる子どもにとってそれは信じることができない。だから、テストの点が取れるように導くことこそが特効薬なのである。

過去の行き過ぎた受験戦争を反省して、テストの点だけでなくその子の良い面を伸ばすゆとり教育に舵が切られたが、うまくいかなかった。結局のところ子どもたちは、周りについて行けなくなって「落ちこぼれ扱いされる」ことに恐怖を抱くのであるから、そうならないためのサポートを拡充することが肝要であるし、学力低下の防止につながるだろう。貧困家庭の子どもへの対応も込めて、学校外の場所(市民会館や地区会館や図書館など)で、ボランティア講師によってなされるべきであろう。行政の協力をとりつけて、門戸を広くし、校区外の同年代の子との交流が促されるようにすると良いだろう。子どもの世界観を広く取り、少しでも多くの大人と接触させることは、子どもの成長に欠かせない糧となるからである。そしてまた、地域全体で、子どもの貧困と学力低下を阻止する姿勢を貫くことである。

考えさせられることの多い良書である。

posted by ぎゅんた at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 漫画以外の本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする